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4 虚空蔵山麓と会田周辺の文化財

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

会田地区を中心とした殿村遺跡周辺の史跡や文化財を紹介します。指定文化財の詳細は「松本のたから」にリンクします。
なお、ここで紹介する文化財には、個人所有地内にあるものや非公開のものも含まれますので、見学される際にはご注意をお願いします。

旧善光寺街道と会田宿周辺の文化財

善光寺街道・会田宿

南から立町、仲町、本町と鍵の手に続く善光寺街道と会田宿は近世に整備されました。松本に鉄道が開通する明治35年(1902年)までは、信濃の南北を結ぶ交通の要衝として往来する人や物資でにぎわっていましたが、道としての歴史は非常に古く、古代においては官道である東山道から分岐して越後に向かう支道だったと推定されています。そのルートは保福寺川の左岸、会田盆地西縁に沿ってまっすぐに北上し、会田本町を通過して峠に至ったものと考えられます。

会田御厨神明宮(奉納絵馬「潮干狩之図」は市指定文化財)

会田御厨の鎮守として白鳳年間(7世紀後半)に勧請されたと伝わる社で、現在残る神明造りの本殿は宝暦6年(1756年)の建立です。境内の一角には弘仁年間(810年~824年)開基と伝わる天台宗寺院の神宮寺があります。

奉納絵馬「潮干狩之図」を詳しく見る

ニゴミ堂

会田宿本町の西、三峰社のある尾根の先端に古墳のような高まりがあります。文禄3年(1594年)の絵図に「人埋堂」と記され、かつてはお堂があったようです。ここから出土した板碑が松本市立博物館に収蔵されているほか、墓地の中に数基分の宝篋印塔が残され、中世の信仰や葬送に関わる遺跡とみられます。

善光寺常夜燈(市指定文化財)

会田宿の北はずれにある一対の常夜燈で、安政2年(1855年)に建立されました。

善光寺常夜燈を詳しく見る

補陀寺(ふだじ)跡

旧会田小学校の体育館付近にあった真言宗の寺院で、明治維新により廃寺となりました。室町時代製作の木造阿弥陀如来立像が伝わり、行基や弘法大師の伝説を有する岩井堂が本寺の奥の院であることなど、中世以前にさかのぼる古い寺院であったと考えられます。長安寺とともに、殿村遺跡の中にある寺として、その関係が注目されます。かつて補陀寺にあった石塔のいくつかは、長安寺の境内で見ることができます。

長安寺(虚空蔵菩薩像・大覚禅師倚像は市指定文化財)

会田氏の祈願寺として、文永5年(1265年)に鎌倉建長寺から蘭渓道隆(大覚禅師)を招いて開いたと伝わる臨済宗寺院で、室町時代初期の製作と推定される禅師の倚像が残されています。しかし、奥院である虚空蔵山の岩屋神社とともに虚空蔵菩薩を本尊とすることから、より古くから存在した密教寺院を前身としていたのではないかと考えられます。本堂は平成25年に解体されました。

廣田寺(木造阿弥陀如来座像・木像十八羅漢像・山門周辺の石造物群は市指定文化財)

曹洞宗寺院の廣田寺は、天正10年(1582年)に滅亡した会田氏の菩提寺として現在地に建立されたもので、前身は尾根向こうの東の谷(知見寺沢)にあった知見寺と伝わります。『善光寺道名所図会』に表わされた近世の伽藍や建物を今日に伝える古刹で、本尊の阿弥陀如来(室町時代)と木造十八羅漢像、山門周辺の石造物群は市指定文化財です。

会田塚

廣田寺の境内、岩井堂沢とうつつ沢に挟まれた斜面にあります。しだれ桜の古木の根元に自然石の碑があり、会田氏一党の刀剣や具足を埋めた塚と言われています。

松澤家長屋門(市指定文化財)

文政10年(1827年)に建築された茅葺き入母屋造りの長屋門です。松澤家は郷士として天保2年(1831年)から明治初期まで、剣法を主とした寺子屋を開いていました。

松澤家長屋門を詳しく見る

岩井堂の芭蕉句碑(市指定文化財)

善光寺街道に面した無量寺参道入口にあります。元禄元年(1688年)にこの街道を通って「更科紀行」を著した松尾芭蕉にちなみ、嘉永2年(1849年)に建立されたものです。「身にしみて大根からし秋の風」の書は江戸の俳人桜井梅室によるものです。無量寺参道入口には弘法堂や弘法大師袈裟掛けの松(現在は碑のみ)などがあります。

芭蕉句碑を詳しく見る

無量寺(本堂ほか登録有形文化財、木造阿弥陀如来座像は市指定文化財)

弘法大師空海を開祖として、弘仁10年(819年)年に仁科5代和泉守が開いた真言宗寺院を前身とし、天正2年(1574年)に仁科25代武田五郎盛信が父信玄の菩提のため曹洞宗に改宗して再興したと伝わります。現在の本堂、庫裏、鐘楼は文化7年~9年(1810年~1812年)の再建で、宝物殿、土蔵、衆寮とともに登録有形文化財に登録されています。また、善光寺街道に面した参道入口には弘法大師袈裟掛けの松(石碑が残存)や弘法堂があります。

岩井堂の観音堂(木造千手観音座像、磨崖仏ほか石造物群は市指定文化財)

岩井堂の観音山は、山頂から山腹に岩肌が荒々しく露出し、古来岩石の名所として知られていました。行基菩薩や弘法大師の伝説があり、歴史の古い聖地だったようです。江戸時代には観音霊場として街道を行き交う人びとの信仰を集め、周辺には数多くの石仏や弘法大師ゆかりの場所が描かれるなど、往時の風景は『善光寺道名所図会』の挿絵に見ることができます。
明治13年(1880年)に再建された観音堂の本尊である千手観音座像、地蔵菩薩や大黒天などの磨崖仏を含む石造物群は市指定文化財です。

うつつの清水(一里塚跡・水溜め石)

岩井堂から善光寺街道をさらに進むと一里塚跡に至ります。その傍らには水溜め石があり、大正時代に岩井堂沢の対岸にあるうつつの清水から引水されていました。うつつの清水は弘法大師が掘り出したという伝説のある名泉として人びとに尊ばれました。

岩井堂の馬頭観音(市指定文化財)

一里塚跡からしばらく先に進むと、林道花川原峠線から善光寺街道最大の難所と言われた立峠に向かう旧街道が分岐します。道の傍らにある彫りの美しい馬頭観音は文化14年(1817年)に建立された三面六臂の忿怒像です。

馬頭観音を詳しく見る

虚空蔵山周辺の文化財

虚空蔵山城跡(中ノ陣城、秋吉城、峯ノ城)

虚空蔵山城は、信仰の山でもある虚空蔵山の広い範囲に築かれた城砦群とも呼ぶべき城で、山頂の狭い稜線上に堀切と狭い平坦地を設けた峯ノ城、山腹の尾根上に平坦地や竪堀を配した秋吉城、背後に大土塁を構え石垣を巡らせた広い平坦地を構える中ノ陣城などから構成されています。また、中ノ陣城と秋吉城の間の谷には、湧水(水ノ手)があり、斜面に石垣を伴う整然とした広い平坦地がいくつも築かれています。(十二原沢上流の平場群)

この城の築造者は会田氏と伝えられ、天文22年(1553年)の武田軍による放火の後は武田・上杉両氏の攻防の舞台のひとつとなります。天正10年(1582年)の武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変による混乱の中、徳川氏を後ろ盾に旧領を回復した小笠原貞慶によって会田氏は滅ぼされます。

広範囲に分布する平坦地や堀がいつどのような過程で築かれたのか、またこの城に手を加えたのは会田氏だけだったのか?あるいは平坦地のすべてが城郭施設だったと言えるのかなど、実に多くの謎を秘めた城です。

オゲ水

林道虚空蔵線沿い、岩屋社鳥居の横にある湧水で、石仏の傍らからこぼれ落ちる水は1年を通して枯れることはありません。鳥居から岩屋神社まで標高差120m近くを急登する石段は、麓の両瀬集落から続く参道です。その西側、尾根伝いの登山道に沿って人工的な平坦地がいくつも見られ、虚空蔵山城にともなう施設の一つとされています。

岩屋神社

岩屋神社は、安山岩の険しい岩場からなる山頂の直下、小川層と呼ばれる数百万年前の海底堆積物である砂岩の巨大な岩壁にできた洞くつに、懸け造りの社殿を構えています。今日でも神仏習合した姿をとどめ、長安寺の奥の院として虚空蔵菩薩像を安置しています。

磐座(いわくら)や湧水など虚空蔵山の古い信仰の上に成立した、密教や修験道との関わりの中で開かれた社と考えられ、現在は麓の両瀬地区の鎮守として住民の信仰を集めています。社殿手前の岩肌には三尊の磨崖仏が彫られています。

虚空蔵山麓の文化財マップ

虚空蔵山と会田宿周辺の文化財マップ

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