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若澤寺跡

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)にゃくたくじ あと

  • 指定等区分 松本市特別史跡
  • 指定年月日 平成23年3月22日
  • 種別 遺跡(寺社跡)
  • 所在地 松本市波田9103
  • 所有者 水沢山共有林組合 ほか
  • 時代区分 室町時代~江戸時代

まぼろしの大寺院 「信濃日光」

若澤寺一山之略絵図の写真
若澤寺一山之略絵図

水沢山若澤寺

若澤寺は、山号を慈眼山(じげんざん)または水沢山(みずさわやま・すいたくさん)といい、新義真言宗京都智積院末の寺院でした。江戸時代には広大な伽藍が整備されて多くの人々が訪れ、「信濃日光」と呼ばれていましたが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取り壊されたり移築されました。現地で見られるのは、田村堂、金堂、中堂、護摩堂、方丈それぞれの石垣と礎石だけですが、遺構の規模が賑わっていた大伽藍を彷彿とさせます。
若澤寺はもと、ここから約2km山奥の元寺場跡(もとてらばあと、市特別史跡)に開かれ、室町時代に水沢谷(みずさわだに)の現在地に下り、戦国から江戸時代初期には、武田勝頼や小笠原氏により寺領を安堵されました。江戸時代後期の文化年間(1804年~1817年)には「若澤寺一山之略絵図」に描かれている伽藍ができあがったと考えられます。

山岳信仰の遺跡を後世に伝える

平成14・15年度には、護摩堂のあった平場の一部で発掘調査が行われ、建物の礎石と江戸時代後期の遺物が見つかり、絵図の正しさが裏付けられました。
また、平成25・26年度に、地元の「若澤寺史跡保存会」によって寺域に茂っていた樹木が整理され、若澤寺跡の姿がより一層分かりやすくなりました。

大切に残された建物や仏像

廃仏毀釈により廃寺となってしまった若澤寺ですが、その堂塔・什物の多くが松本平の他の寺院等に移され、その姿から往時の姿をしのぶことができます。主なものとしては、田村堂が山麓の上波田阿弥陀堂の前に、金堂(薬師堂)が今井の正覚院に、鐘楼が梓川の恭倹寺に移されました。また、山麓の盛泉寺には観音堂が移され(現在は改築)、水沢観音は信濃三十三ヶ所観音霊場のひとつとなっています。盛泉寺にはその他多数の仏像等が伝わり、大切に残されています。

↓若澤寺から移された主な指定文化財


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