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松本市の初任者に、教育長としての話をしました。これから長野県の教育の創り手となっていく方々に、これからの教員人生を送っていく上で大切にしてほしいことを伝えたいと考えていました。
一番伝えたかったことは、「子どもを大切にする」ということです。もっと言うと、子どもの「いのち」を大切にすることです。「いのち」とひらがなで示す理由は、「心身」と書くように、生命としての命だけでなく、心の「いのち」、もっと言うと、一人の人間としての尊厳を大切にする、ということです。子どもの尊厳を大切にしたら、わいせつ等の非違行為など起こさないだけでなく、学びを含むその子の生活のすべてに心を配ることができるでしょう。自分の親や兄弟、子ども等、家族に対する愛情と同等に、児童生徒を愛する教師になってほしいと伝えました。
二つ目は、「いい子を育てること」についてです。いい子と言われる子は、本当によい子なのでしょうか。教員の価値観から見た「いい子」は、本当にその子の素の姿なのでしょうか。そこには、教師の期待に応えようと無理をしたり、怒られないよう褒められるよう、忖度して行動している姿があるのではないでしょうか。松本市の教育長として、私は、「自分らしく あなたらしく ありのままに」いられて学べる子どもの姿をめざしています。「あなたらしく」というのは、その子らしく過ごしている他者の個性も尊重する、という願いです。子どもがこのような姿でいられる学校づくりについて、教員として探究し続けていただきたい、と伝えました。
三つ目は、「思考力、判断力、表現力」についてです。一番大切な表現力は何か、という問いとともに、教員は、子どもが自分なりにまとめた考えや理解したことの発表など、「分かったこと、できたこと」を発表する表現力の育成に注力しがちです。しかしながら、本当に大切な表現力は、「わからない、できない、教えて」と言える表現力です。これから先の人生、この力があれば、困ったときに他者に支えられ、生き抜くことができるのではないでしょうか。真に協働的な学びの充実をめざすのであれば、この表現力の大切さについて、子どもたちが理解できるよう、支援していただきたい、と話しました。
四つ目は、教員の一番の仕事である、授業についてです。長野県は、授業の型が明確にあるわけではなく、初任者に授業の進め方の定型を教えることはありません。個々の教員の裁量性がとても高い県です。授業づくりも自分の思うようにできますが、それ故の責任も伴います。教員は、自分の学校時代に体験した授業をそのまま再現する傾向があると言われています。社会が大きく変化する中、自分が体験した授業の再生産では、変化の激しい予測困難な時代を生き抜く人をはぐくむことにつながりません。そこで、授業づくりの「守破離」について話しました。まずは、先輩や同僚の授業を真似る「守」。その上で、自分なりのアレンジを加え、真似ている型を破る「破」。そして、型から離れ、自分なりの授業を突き詰めていく「離」。これが「型破り」な素晴らしい授業実践につながるのであり、他者の授業を真似ることもせず、適当な授業を日々行っていくのは「形無し」の授業で、子どもたちに失礼です。授業づくりには、完成はありません。生涯に渡って、よりよい授業を追い求め続けることが、教師の矜持です。この矜持を胸に、理想の授業を追い求め続ける教師であってほしい、とお願いしました。
最後に、「教育とは、未来を創造する営みであり、未来とは希望」という、県教育委員会の言葉を伝えて、初任者の前途を祈りながら、話を終えました。
令和7年4月1日付けで、松本市教育長として着任した曽根原好彦と申します。これから、教育長通信に、様々なメッセージを綴ってまいりたいと思います。第1回は、学校改革、授業改善に挑戦しようとする学校への願いについてです。
○○ラーメンで有名な観光地へ行きました。「どうせ食べるなら名店で」と思うのは常で、昔はタクシーの運転手に聞いたりしたそうですが、ネット社会の今は、検索すれば様々な情報が得られます。私も様々なサイトで検索したところ、どうも伝統店と革新店があることが分かりました。伝統店は戦後このラーメンが作られ出した時からの味を守っているお店、革新店はその味を今に進化させ、東京ラーメンショーで過去5回売り上げNo.1を誇った店です。どちらを食べるか迷います。しかし、あるサイトに、「伝統店こそが昔ながらの本物の味。戦後、労働者が、ラーメンをご飯のおかずとして好んで食した味」と書かれており、「やはり伝統を食さなければここまで来た意味がない」と考え、伝統店へ向かいました。
店内に入ると、スーツケースや大きなカバンを持った方など、観光客も多いことが分かりました。いよいよラーメンの登場です。最初に一口、スープを飲みます。衝撃が走ります。味が濃い。一緒に頼んだご飯の上に麺をのせ、まさしくご飯のおかずとして食べられますが、普通に食べるのは躊躇してしまいます。その後、スープはほとんどすすらず、麺と具、ご飯を食して、店を後にしました。
翌日、革新店に向かいました。中に入ると、家族連れや仕事着の方等、地元と思われる方が多数来店されていました。ラーメン登場、見た目は昨日と変わりません。おそるおそるスープを飲むと、美味しい。ご飯のおかずとしてのラーメンではなく、ラーメンそのものを味わえます。東京ラーメンショー売り上げ1位を五回獲得は伊達ではありません。
2つの店を食べ比べ、この味の違いは、その時々の社会の有り様を表しているのだなと思いました。戦後、肉体労働で働き詰めた方々が、ご飯のおかずとして塩気を求めて食べた濃い味。その頃、お店にはすごい行列ができたそうです。その伝統の味は、今の私の口には合いませんでした。今の時代のニーズに合わせ、きっと試行錯誤しながら極めた革新店の味の方が、私には美味しく感じました。
さて、教育も、その時代や社会に合わせて、当然変わるべきものと考えます。平成の一桁代、学校は荒れました。私もクラス替えをしない荒れたクラスを途中から受け持ったことがありますが、「席に着いていられない」「他人を馬鹿にする悪口が横行し、順番に標的が変わるいじめがある」「カラフルで乱れた服装」「整列、挨拶、清掃はしない」など、思いやりも規律もない状況でした。その時は、「団結・協力」を重視し、集団に適応するための学級指導を精一杯行い、所属感や仲間意識を高めることに注力しました。みんなで揃え、心を合わせ、全員で行う行事の達成感を味わう。クラスとして落ち着き、卒業を迎えました。今思えば、荒れる集団をそのようにして統制していたように思います。今はどうでしょうか。荒れるように暴れる子どもはどのくらいいるでしょうか。今は、集団に馴染めない、学校に来られない、自己肯定感をもてない子どもを少なからず生み出している、学校のあり方に目を向ける必要があると考えます。
信州の教育は、子ども第一主義です。これは昔も、今も、これからも変わりません。これからも変わらないからこそ、今の時代、今の社会状況に合わせて、「変わる」べきことがあるように感じます。伝統の味は素晴らしかったと回顧されるものですが、今の私の口には合いませんでした。今の時代に合う教育の味は何なのか、模索し、「子どもが主人公 学都松本のシンカ」に精一杯注力してまいりたいと思います。