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松本城の歴史

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

松本城の縄張り

 松本城は、三重の水堀に囲まれています。内側から「内堀」、「外堀」、「総堀」と呼んでいます。ただし、本丸の北側では内堀が外堀と接続していて外堀と一体化しています。
内堀に囲まれた中が「本丸」、外堀に囲まれた中が「二の丸」、外堀と総堀の間が「三の丸」です。
本丸には、天守の建物と御殿(本丸御殿)があり、二の丸には、御殿が2棟(二の丸御殿と古山地御殿、のちに古山地御殿の西に新御殿が建つ)と米蔵などの蔵が建ち、西側部分には茶屋などが設けられていた時期もありました。三の丸には家老をはじめとする上中級の藩士の屋敷が置かれていました。総堀の城側には土塁が築かれその上には塀が廻っていて、城内を容易に見通すことはできませんでした。
総堀の外には城下町が広がり、善光寺街道が南から北に通っていました。善光寺街道沿いには町人たちの家が立ち並び、その外側には寺社地が置かれていました。
城への出入り口は5ヶ所あります。大手門には枡形を備え、他の東・北・北不明(あかず)・西不明のそれぞれの門の前には馬出(うまだし)を配しています。この馬出の形は武田氏の馬出の系譜をひいているといいます。城への通常の入り口は東門で、そこから太鼓門、黒門、本丸へと進みました。城下の北部に住んだ武士たちは北門が通用門でした。
 これらの城内及び周辺の城下町は、明治時代に大火に見舞われ建物の多くを失いましたが、町筋や町名に当時の面影を残しています。

松本城のできごと

  • 1582年(天正10年)
    小笠原貞慶が旧地を回復し、深志を松本と改める。
  • 1593年(文禄2年)
    石川康長によって松本城天守の工事が始まる。
  • 1613年(慶長18年)
    石川康長が改易され、小笠原秀政が入封する。
  • 1615年(慶長20年)
    大坂夏の陣で小笠原父子が戦死する。
  • 1617年(元和3年)
    戸田康長が入封する。
  • 1633年(寛永10年)
    松平直政が入封し、以後月見櫓・辰巳附櫓・八千俵蔵などを建設する。
  • 1638年(寛永15年)
    堀田正盛が入封する。
  • 1642年(寛永19年)
    水野忠清が入封し、以後水野氏統治の時代に松本城下町の姿が整う。
  • 1649年(慶安2年)
    松本領内の総検地が始まる。
  • 1686年(貞享3年)
    全藩的な百姓一揆「加助騒動」がおきる。
  • 1724年(享保9年)
    松本領内の地誌『信府統記』ができる。
  • 1725年(享保10年)
    江戸城で刃傷事件を起こし水野家は改易される(松本大変)。
  • 1726年(享保11年)
    戸田光慈が入封する。
  • 1743年(寛保3年)
    幕府領5万石を預かる。
  • 1825年(文政8年)
    大規模な百姓一揆「赤蓑騒動」がおきる。
  • 1864年(元治元年)
    水戸浪士と和田峠で戦う。
  • 1866年(慶応2年)
    第2回長州出兵に加わる。
  • 1868年(慶応4年)
    戊辰戦争で東征軍に加わり北越へ出兵する。
  • 1869年(明治2年)
    戸田光則は版籍を奉還する。
  • 1871年(明治4年)
    廃藩置県で、松本県引き続き筑摩県になる。二の丸御殿に筑摩県の県庁を置く。城内の門や塀の破却が始まる。
  • 1872年(明治5年)
    天守の建物が払い下げになる。市川量造が買戻しに奔走する。
  • 1876年(明治9年)
    筑摩県庁(二の丸御殿)が焼失する。
  • 1901年(明治34年)
    小林有也が天守修復に尽力する。
  • 1930年(昭和5年)
    本丸と二の丸の一部が国史跡に指定される。
  • 1936年(昭和11年)
    天守が国宝に指定される。
  • 1950年(昭和25年)
    国の事業で天守の解体修理が始まる。
  • 1952年(昭和27年)
    文化財保護法に基づく国宝に指定される。
  • 1999年(平成11年)
    太鼓門が復元される。

歴代の城主

  • 石川氏
    • 数正 1590年に和泉国から8万石で入封
    • 康長 1613年に大久保長安事件に連座し改易九州佐伯へ配流
  • 小笠原氏
    • 秀政 1613年に信濃飯田から8万石で入封 妻「福姫」は家康の孫
    • 忠真 1617年に播磨明石へ転封
  • 戸田氏
    • 康長 1617年に上野高崎から7万石で入封 妻「松姫」は家康の義妹
    • 康直 1633年に播磨明石へ転封
  • 松平氏

        直政 1633年に越前大野から7万石で入封 家康の孫
            1638年に出雲松江へ転封

  • 堀田氏

        正盛 1638年に武蔵川越から7万石で入封 家光の老中
            1642年に下総佐倉へ転封

  • 水野氏
    • 忠清 1642年に三河吉田から7万石で入封 家康生母「於大」の実家筋
    • 忠職
    • 忠直
    • 忠周
    • 忠幹
    • 忠恒 1725年に江戸城内で刃傷事件を起こし改易(松本大変)その後幕府が松本城を収公する
  • 戸田氏
    • 光慈 1726年に志摩鳥羽から6万石で入封 戸田氏は松本へ再度の入封
    • 光雄
    • 光徳
    • 光和
    • 光悌
    • 光行
    • 光年
    • 光庸
    • 光則 1869年版籍奉還 最後の藩主

市民が守る

 江戸時代が終わると城は不要なものになりました。そのような中で、現在まで松本城を守り続けてきたのは、住民の力でした。松本城は市民によって守られてきました。
 廃藩置県になって藩は解体し、城郭は売り払われたり取り壊されたりされる運命となりました。松本でも明治4年末ころから門や櫓などが壊され始めました。

天守を買い戻した市川量造 ─明治初期─

 天守は当時のお金で、235両永125文で個人に売却されました。これを知った松本町横田の副戸長であった市川量造は、天守がみすみす壊されてしまうことを憂い、これを買いもどそうと尽力します。地元ばかりでなく東京や大阪にも足を運び、人々に広く募金を呼びかけました。さらに天守をつかって、当時はやりであった博覧会を開き人々に骨董品の展示を見てもらって、その観覧料を資金にあて買い戻しに成功しました。
 また、博覧会後には本丸を植物試験場にして新しい植物の栽培に挑戦もしました。このような市川の努力によって、天守は売却・破壊の危機を乗り切ることができました。

天守を修繕した小林有也 ─明治後期─

 二の丸には、明治18(1885)年県立の松本中学校の校舎が建てられました。その初代校長として迎えられたのが小林有也です。小林は大坂の伯方(はかた)藩の重臣の子として生まれました。明治になって大学南校に学び、わが国最初の東京大学物理学専攻の理学士となっています。松本中学校の開校にさいし校長として迎えられ、大正3(1914)年死去するまで29年間校長を務めた傑物でした。
 市川が植物試験場とした本丸が、明治33(1900)年同校の校庭として使用されるようになりました。これをきっかけに小林は天守閣保存運動に乗り出します。明治34年「松本天守閣保存会」を発足させ人々の賛同と寄付を得ながら、明治36年から修繕工事を始め大正2年に完了させました。その主たる工事は建物の傾きの補修と筋交いをいれるなど補強と外面を整えることでした。

昭和の大修理 -昭和20年代-

 明治の修理後、時間の経過とともに再び建物に傷みが見えるようになりました。太平洋戦争後、松本城を視察した連合軍総司令部美術顧問による文部省への勧告があり、時の市長や市民の熱意によって、昭和25年から5ヵ年の年月をかけて解体修理が行われました。この事業は文部省直轄の国宝保存事業の第1号でした。つづいて姫路城も同様に修理が行われますが、松本城の素屋根を掛けるためにつかった丸太が姫路城の工事でも再活用されています。
 解体と平行して調査も行われ、その結果にもとづいてかつての姿にもどす工事がなされました。そして、現在私たちが目にする松本城の姿になりました。
 工事中すっぽりと覆っていた素屋根がはずされ、北アルプスを背景に凛とした漆黒の天守が再び全貌を表したとき、市民の感慨もひとしおでした。

現在

 松本城を保存・活用する活動は、日々継続して行われています。保存整備計画に基づき、黒門枡形や門の復元、二の丸御殿跡の発掘調査と整備、さらに平成11年には太鼓門の復元などを実施し、最近では総堀の土塁跡の一部復元も行われました。今後も地道な調査・研究を積み上げながら、松本城の保存・整備・活用を行っていきます。
 多くの市民の力で松本城は支えられています。お城にみえる観光客の皆様に松本城や町の魅力をより知っていただこうとユーモアを交えながら案内するボランティアグループ、糠袋を使って天守の床を一生懸命に磨く床磨きボランティア、草取りや落ち葉の清掃に来てくれる小中学生、イベント活動などを蔭から支えてくれている古城会のメンバーなどなど、さまざまな形で市民が活動しています。このページのトップに戻る


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