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城下町から商都へ 町民の信仰と祈り 暮らしの中のお祭

更新日:2023年5月1日更新 印刷ページ表示

町民の信仰と祈り 暮らしの中のお祭

 

認定年月日

令和4年11月4日

保存活用団体

第二地区歴史文化継承委員会

構成する文化財(関連文化財群)

神社仏閣等

深志神社

深志神社
濃守護小笠原貞宗が暦応2年(1339年)に宮村宮を祀り、松本藩主小笠原秀政が慶長19年(1614年)に天満宮の分霊を宮村宮の隣に並び祀った後に「学問の神様・天神さま」として歴代藩主・藩士をはじめ、松本城下の人々から広く仰がれ、篤い信仰と祈りと崇敬の念が寄せられ、地域文化の発展とともに現在に至っている。

冨士浅間神社

冨士浅間神社
元は里山辺林山の麓にあり国司小笠原家が数代にわたり信仰していたが、天文年中(1532~1555)に現在地に遷宮したとされる(『信府統記』)。鎮座地は、深志神社(もと宮村大明神) 西正面鳥居のすぐ前で、江戸期にあった天神馬場の東端となる。氏子は宮村町1丁目・2丁目、境内社に金毘羅宮と多賀神社がある。

秋葉神社(小池町)

秋葉神社(小池町)
明治21年1月4日夜の極楽寺の大火災の際もご神体は遷宮して安泰であったこと、隣接地の劇場が全焼した際も火災に遭わず、町内で起こった数度の小火も大事に至らず、霊験あらたかな火防の神として崇敬されてきた。小池町では6月18日の例大祭、旧暦の午の日の稲荷祭、年番・月当番を決めて月例祭を行っている。

秋葉神社(向島)

秋葉神社(向島)
昭和17年(1942)5月に向島町内有志で現在地に建立された。現在地に移る前は福田家の北裏に大正末期頃まで祀られていたと伝えられている。静岡県森町の秋葉神社総本山から招聘されている。石積み基壇の上に木造一間社流れ造りの祠が祀られている。

熊鷹稲荷神社(中条東第2)

熊鷹稲荷神社
稲荷神は稲を象徴とする穀霊神・農耕神であり、もとは「稲成り」であったという。商工業が発達するにつれて、稲荷神観念が穀霊神から生業守護神・福神などへ変化し、分霊が様々な祈願目的によって全国各地へ勧請された。
なぜこの地に「熊鷹」という名の稲荷が勧請されているのかは不明だが、春秋の2回、例祭が行なわれ、住民の交流の場となって久しい。

正一位真綿稲荷神社

正一位真綿稲荷神社
奉賛会、宮村町、小池町に住む多数の信者に守られてきた。往時は製糸業を営んでいた家がお祭りしていたが、その後、地域の商家の人々が引き継いで毎日お祭りをしてきた。真綿稲荷の由来は神殿の奥深く、繭によって守られていたお蚕神様。例祭は初午祭を中心に行われ、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全が祈られている。

全久院

全久院
開基は松本戸田家の始祖・戸田康長。35世巨海恵龍和尚の時、藩主戸田光則は廃仏を断行して全久院跡へ開智小学校を建てる。その後、安達々淳和尚(霊松寺住職)は瑞松寺跡が空地になっていたのを買い取り全久院を再建した。再興開山は若い時全久院の典座を務めたことのある總持寺大本山貫主奕堂禅師。松本札所第六番として、 十一面観世音菩薩がまつられている。

龍興寺

龍興寺
江戸時代まで松本藩領にあった日蓮宗の4ヶ寺を、明治初年に統合して今日に伝えたのが龍興寺である。
寺号を改称しているが、連綿とした法華経信仰と熱心な檀徒を待ち、500年の歴史を継承する由緒の深い古刹である。城下町松本のほぼ中央源地に位置するが伝統的な景観をとどめる周囲のなかでひときわ荘厳な雰囲気を放っている。

瑞松寺

瑞松寺
小笠原長秀を開基とし、天正18年(1590) 石川康昌(数正)入城にあたりその信仰により再興の許を得て、今の飯田町北端の辺に造営し改めて萬年山瑞松寺と称した。明治5年(1872)、廃仏毀釈で廃寺となったが、瑞松寺はもと末寺にあたる源地宝泉院の跡を修理し、明治13年(1880) 5月官許を得て再興し、現在に至る。 昭和50年代の新本堂建立等で面目を一新した。

乾瑞寺跡(龍昌寺跡、円乗寺跡)

乾瑞寺跡
乾瑞寺は慶安元年(1648) 松本領の領主第二代水野出羽守忠職が、京都妙心寺塔中養賢院(後性宣院)の住持となっていた弟龍天和尚 (祖活)を招いて開基した寺である。 往時、東西31間半、南北22間半の寺域を誇ったが、明治5年(1872)に廃仏毀釈により廃寺となった。 寛文10庚戌年(1670)に忠職の老母福寿院の遺骸を葬る。

厄除北向観音堂

厄除北向観音堂
この観音堂は宮村町から大橋通りに抜ける小路にある。 往時、この小路には庚申堂とこの観音堂があったが、庚申堂は昭和の初め頃に、浅間温泉の庚申堂に移された。観音堂の由来ははっきりしないが、堂宇はため昭和49年(1974)に再建され、その後は毎月17日を観音様の縁日として今日に至っている。なお、この小路をかつてこの場所に在った庚申堂に因み、「庚申小路」と呼ぶ。

史跡

源智の井戸

源智の井戸 松本市特別史跡
​【松本市特別史跡】
城下町が形成される前から飲用水として使われていたこの井戸は、天保14年(1843) に刊行された『善光寺道名所図会』には「当国第一の名水」を称賛され、明治13年(1880)の明治天皇御巡幸時にはこの井戸水が御膳水として用いられた。この井戸がある宮村町一丁目の有志の方々が「井戸を守る会」を結成し、一年間を通じて清掃や環境整備に熱心に取り組んでいる。

鈴木伊織の墓、伊織霊水

鈴木伊織の墓
鈴木伊織頼常は松本藩主水野忠直の家臣で、役職は江戸詰小姓頭であった。貞享3年(1686)に起こった「貞享騒動」の首謀者・加助らとその家族の処刑にあたり、苦心惨憺、義民助命のために奔走した人物であったという。昭和50年(1975) に有志が伊織の顕彰会を結成した。顕彰会では墓域を改修し、義士の徳を顕彰するなどし、毎年10月3日の命日に法要を行っている。

舞台、神輿

宮村1丁目舞台

宮村1丁目舞台
【松本市重要有形民俗文化財】
明治20~30年の製作。四輪・二層構造で、町民の長寿と健康を祈る守り神としてスサノオノミコトの飾り物がなされる。 大工棟梁は不詳だが、 人形師は壺天中、 田中徳斎。もと櫓型構造であったという簡素な工法の舞台。

小池町舞台

小池町舞台
【松本市重要有形民俗文化財】
明治27年(1894) の製作。四輪・二層構造で、日本武尊、牛若丸、源新羅三郎義光らの日本説話の主題を木彫以外にも施す。大工棟梁は不詳だが、彫刻師は清水湧水、 塗師は小川久吉。地元町会の技術者総動員で一生懸命造った特色ある舞台。

飯田町1丁目舞台

飯田町1丁目舞台
【松本市重要有形民俗文化財】
明治36年(1903)の製作。四輪・二層構造で、廿四孝や仙人などの彫刻が施される。多彩で豊富な木彫刻に特色があるが、大工棟梁・彫刻師等は不詳。人形は高砂で、長寿と健康を願う。

飯田町2丁目舞台

飯田町2丁目舞台
【松本市重要有形民俗文化財】
明治5年(1872)の製作。四輪・二層構造で、かつては牛が牽引した。上下層とも平面的に前方が後方より広いこと、車輪の大きさが前のほうが小さいことは松本ではこの舞台のみで特異である。人形は蘭陸王で雨乞いの主役。

深志神社神輿(2基)

深志神社神輿
【松本市重要有形民俗文化財】
いずれも元禄11年(1698) に松本城主水野忠直が寄進した棟札が残る。1台は建御名方命を祀る宮村大明神、1台は菅原道真を祀る深志天満宮のものである。神輿の屋根と基礎の台の四面に、宮村大明神のものには梶の葉の紋が、深志天満宮のものには梅鉢の紋がみられる。各部の彫刻や金具の図案もすぐれ、美術工芸的に価値が高い神輿である。

ストーリー

 第二地区は市街地の中心部に位置し、江戸時代は地区の北側おおむね半分の範囲が城下町で、東半分は明治以降、生糸産業の発展とともに町になりました。この区域は地下水が豊富に湧き出ており、「源智の井戸」のほか沢山の井戸とともに暮らしに根差した文化財が多く残されております。城下町の防衛機能を担っていた寺院は、廃仏毀釈により多くが取り壊されて廃寺になりますが、地区には瑞松寺の場所に再興された全久院や、再興されず跡を偲ぶことができる乾瑞寺跡などがあります。

 深志神社では、毎年7月に町ごとに建造した16基の舞台を曳き回し、町と神社を往還して深志神社に奉納する天神祭が盛大に執り行われます。また、火伏の秋葉神社や商売繁盛・家内安全を祈願する真綿稲荷神社、厄除け北向観音堂、貞享騒動で義民助命に奔走した鈴木伊織の墓と伊織霊水などがあります。

 これらの文化財群が、地域に暮らす人々の信仰や暮らしの営みと密接に関わって現在も存在し続けています。

活動

 ​講演会、学習会の開催等を通じて地区の文化財を内外に周知し、文化財に親しみながら文化を継承する活動に取り組みます。文化財の周辺清掃等の環境整備、保護活動を継続します。史跡ウォーキング等、多世代が参加できるイベント開催や祭事への参加等、子供たちが身近な文化財に親しむ機会を設けます。また、先進地区の活動の視察等の活動の裾野を広げ、文化財マップ改訂版の発行等、地区住民が地域の文化財に関心を持てるよう学習の機会を提供します。

講演会
認定記念講演会

資料

範囲図
位置図


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