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橋倉家住宅

更新日:2023年4月5日更新 印刷ページ表示

(読み方)はしくらけ じゅうたく

  • 指定等区分 長野県宝
  • 指定年月日 昭和51年(1976年)3月29日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市旭2-10-1
  • 所有者 松本市
  • 時代区分 江戸時代

武家住宅の典型例

概要

橋倉家住宅のある場所は、松本城下町の北東に位置し、江戸時代に「東ノ丁」と呼ばれた中下級武士の居住地区でした。橋倉家は古くは水野家に仕え、後に戸田家に仕えました。俸禄は七石程度で下級武士(足軽)という身分であったことがわかっています。

現存する主屋は、「一度隣家の出火によって類焼したことがある」と伝承がありますが、嘉永2年(1849)12月25日に東ノ丁一帯で97軒が焼失する火事があったことと、「なかのま」の梁に墨書があり、「嘉永三庚申年四月二十四日建之 橋倉與兵衛」とあることから、嘉永3年に建てられたと推定されます。
南側には巾約2間の小路があり、共同井戸の跡が残っています。

造り

このページのトップに戻る屋敷跡の規模は、間口が約7間半、奥行が約11間です。
主屋は、間口6間半、全体で奥行7間の切妻造、鉄板葺き(もと板葺き)で一部2階建です。前後に下屋が設けられています。間取りは、武家住宅の典型的な形式を示すもので、大戸口を入ると土間があり、それに沿って「六畳」(主人の書斎兼応接間)、「なかのま」、「おかって」が並び、奥に「かみざしき」、「しもざしき」、納戸があります。また、「なかのま」の押入れの中にある階段から二階へ上がることができ、2階には床の間のついた6畳が設けられています。
主屋の後方には渡り廊下で連結した別棟の便所(雪隠)があります。

内部をみると、建築当時は天井がなく、表側の縁側には雨戸が設けられていなかったとされており、江戸時代の藩の厳しい規制をうかがわせます。一方、建物の造作は念入りで、材料も立派なものが使われています。一般的には武家住宅ではあまり設けられない差鴨居も多く用いられています。

建設主体

橋倉家住宅の墨書に居住者である橋倉與兵衛の名が残されていることから、建設主体は橋倉與兵衛であることが推定されます。伝承として、「建設時に費用がかかりすぎて、お上よりお叱りがあった」というものがあります。橋倉家住宅は藩から一方的に供給されたのではなく、居住者である武士自身が建設主体であったと推定されます。

地域のたからとして

橋倉家住宅は、改築・増築の痕跡は見られるものの、江戸時代の武家住宅の形式を良く残している建物です。

こうしたことから、昭和51年(1976)3月29日に長野県宝に指定されました。平成14年(2002)には松本市へ建物が寄附され、将来に向かって保存が図られるほか、地域の方々の講座など、様々なことに活用されています。

資料

パンフレット表紙

パンフレット [PDFファイル/2.69MB]

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