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橋倉家住宅
(読み方)はしくらけ じゅうたく
- 指定等区分 長野県宝
- 指定年月日 昭和51年(1976年)3月29日
- 種別 建造物
- 所在地 松本市旭2-10-1
- 所有者 松本市
- 時代区分 江戸時代
武家住宅の典型例
概要
橋倉家住宅のある場所は、松本城下町の北東に位置し、江戸時代に「東ノ丁」と呼ばれた中下級武士の居住地区でした。橋倉家は松本藩主戸田家に代々仕え、そのなかで、江戸時代末期に建てられた橋倉家住宅に関わる橋倉与兵衛政中の最終の石高は8石2人扶持で御徒士です。山目付や糠藁奉行、御大工奉行など様々な仕事をしていたことがわかっています。
嘉永2年(1849)12月25日に東ノ丁一帯の97軒が焼失する火事がありました。橋倉家には「一度隣家の出火によって類焼したことがある」と伝承がありますが、現存する主家「なかのま」の梁に「嘉永三庚申年四月二十四日建之 橋倉與兵衛・・・」と墨書があることから、嘉永3年(1850)に上棟したことがわかっています。
南側には幅約2間の小路があり、共同井戸の跡が残っています。
造り
主家は、間口6間半、奥行約7間の切妻造、鉄板葺き(もと板葺き)、一部2階建です。間取りは、武家住宅の典型的な形式を示すもので、大戸口を入ると土間があり、それに沿って六畳(主人の書斎兼応接間)、なかのま、おかってが並び、奥にかみざしき、しもざしき、納戸があります。また、なかのまの押入にある階段から2階へ上がると、床の間のついた6畳があります。
主家の後方には渡り廊下でつながった別棟の便所(雪隠)があります。
内部をみると、建築当時は天井がなく、長押なども省略されており、質素倹約を基本とする武家住宅の特性をあらわしています。一方で、一般的には設けられない差鴨居が多用されていることや、部材に角のある角材が用いられるなど立派な材料が使われています。
建設主体
梁の墨書に居住者である橋倉與兵衛の名が残されています。また、「家をつくるときに費用がかかり過ぎて、お上よりお叱りがあった」という橋倉家の伝承からも、橋倉家住宅は藩から一方的に供給されたのではなく、居住者の武士自身が建設主体であったことを裏付けています。
橋倉家住宅は、改築・増築の痕跡は見られるものの、江戸時代の武家住宅の形式を良く残している建物です。昭和51年(1976)3月29日には長野県宝に指定されました。平成14年(2002)に建物が松本市へ寄附され、現在は、見学会の開催や公民館活動、地域の講座など文化財の周知とともに、施設活用のための様々な取組みが試みられています。
事業
令和4年度から令和6年度まで県宝橋倉家住宅活用修理事業を実施しました。令和5年度に実施した修理工事についてはこちらをご覧ください。
報告書
長野県宝 橋倉家住宅修理工事報告書(R6) [PDFファイル/18.69MB]