ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

橋倉家住宅

更新日:2024年4月3日更新 印刷ページ表示

(読み方)はしくらけ じゅうたく

  • 指定等区分 長野県宝
  • 指定年月日 昭和51年(1976年)3月29日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市旭2-10-1
  • 所有者 松本市
  • 時代区分 江戸時代

武家住宅の典型例

概要

橋倉家住宅のある場所は、松本城下町の北東に位置し、江戸時代に「東ノ丁」と呼ばれた中下級武士の居住地区でした。橋倉家は古くは水野家に仕え、後に戸田家に仕えました。俸禄は七石程度で下級武士(足軽)という身分であったことがわかっています。

嘉永2年(1849)12月25日に東ノ丁一帯の97軒が焼失する火事がありました。橋倉家には「一度隣家の出火によって類焼したことがある」と伝承がありますが、現存する主屋「なかのま」の梁に「嘉永三庚申年四月二十四日建之 橋倉與兵衛・・・」と墨書があることから、嘉永3年(1850)に建てたことがわかっています。

南側には巾約2間の小路があり、共同井戸の跡が残っています。

造り

屋敷跡の規模は、間口が約7間半、奥行が約11間です。

主屋は、間口6間半、全体で奥行7間の切妻造、鉄板葺き(もと板葺き)、一部2階建です。建物調査により当初から2階があったことがわかっています。間取りは、武家住宅の典型的な形式を示すもので、大戸口を入ると土間があり、それに沿って「六畳」(主人の書斎兼応接間)、「なかのま」、「おかって」が並び、奥に「かみざしき」、「しもざしき」、納戸があります。また、「なかのま」の押入れにある階段から2階へ上がると、床の間のついた6畳があります。

主屋の後方には渡り廊下で連結した雪隠(便所)があります。

内部をみると、建築当時は天井がなく、寒さが厳しいにも関わらず、表側の縁側には雨戸がありません。このことから江戸時代の藩の厳しい規制がうかがえます。その一方で、室内の造作は念入りで一般的には設けられない差鴨居が多用されていることや、部材に角のある角材が用いられるなど立派な材料が使われています。

建設主体

橋倉家住宅の墨書に居住者である橋倉與兵衛の名が残されています。また、「建設時に費用がかかりすぎて、お上よりお叱りがあった」という橋倉家の伝承からも、橋倉家住宅は藩から一方的に供給されたのではなく、居住者の武士自身が建設主体であったと推定されます。

地域のたからとして

橋倉家住宅は、改築・増築の痕跡は見られるものの、江戸時代の武家住宅の形式を良く残している建物です。昭和51年(1976)3月29日には長野県宝に指定されました。平成14年(2002)に建物が松本市へ寄附され、現在は、見学会の開催や公民館活動、地域の講座など文化財の周知とともに、施設活用のための様々な取組みが試みられています。

資料

パンフレット表紙写真

パンフレット [PDFファイル/2.53MB]

Adobe Reader<外部リンク>
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)

松本市AIチャットボット