本文
里山辺かるた「と」
更新日:2026年10月20日更新
印刷ページ表示
伝説によれば「徳川氏の始祖松平有親(ありちか)・親氏(ちかうじ)父子がまだ世良田(せらだ)を名乗っていたころ、浪々の身となって諸国を放浪していた。その旅の途、現在の廣澤寺の近くに居を構えていた旧知の小笠原清宗の次男林藤助(はやしとうすけ)を頼って訪れたのは暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。何ももてなす物とて無い藤助は弓矢を携え野に出るが、中々獲物が手に入らない。と、そこに一羽の兎が走るのを見つけ、首尾よく捕えてそれを馳走したところ、父子は委託喜び食し帰途についた。この後、親氏は『松平』を名乗り、家康の代になって幕府を開くに及ぶと、〈これはかの兎のお陰〉と、江戸幕府では正月に『兎のお吸い物』を諸侯(しょこう)にふるまうのを吉例とした。」というものです。『兎田の主』は勿論【林藤助】です。「林」の姓も松平氏(徳川氏)から賜ったものといいます。徳川家年中行事歌あわせに「をりにあへば 千代の例となりにけり 雪の林に得たる兎も」とあります。兎を「一羽、二羽」と数える慣わしはここからきたともいわれます。
しかし、この話はあながち事実無根とはいえません。将軍が『兎のお吸い物』を振舞う儀式は事実行われていたし、「兎を調達し献上するのは林家の役割」となっていたようです。そして「藤助が兎を捕らえた」とされる田は江戸時代『免田(めんでん)』(税を納めることを免除された田)として保護されていました。現在、廣澤寺大門先の田には『兎田旧跡』の石碑が建っています。
因みに林家の末裔(まつえい)は徳川譜代(ふだい)の旗本として〔若年寄〕等の幕閣(ばっかく)の中枢で活躍し、千葉の請西(じょうざい:木更津市)に領土を賜っています。
※林藤助については、清宗の「次男」とする説と「三男」とする説と二つあります。
しかし、この話はあながち事実無根とはいえません。将軍が『兎のお吸い物』を振舞う儀式は事実行われていたし、「兎を調達し献上するのは林家の役割」となっていたようです。そして「藤助が兎を捕らえた」とされる田は江戸時代『免田(めんでん)』(税を納めることを免除された田)として保護されていました。現在、廣澤寺大門先の田には『兎田旧跡』の石碑が建っています。
因みに林家の末裔(まつえい)は徳川譜代(ふだい)の旗本として〔若年寄〕等の幕閣(ばっかく)の中枢で活躍し、千葉の請西(じょうざい:木更津市)に領土を賜っています。
※林藤助については、清宗の「次男」とする説と「三男」とする説と二つあります。

よもやま話(今に語り継がれる《兎田伝説》)
(令和3年3月1日の記事)広沢寺山門の前に《兎田旧跡》の石碑がひっそりと建っています。「とある歳の瀬、徳川氏の始祖の有親・親氏父子が訪れた折、雪の田野に出て自慢の弓矢で兎を捕らえ父子をもてなし、これが縁で重要な側近家臣となった」と伝承される林藤助の話です。
藤助は小笠原清宗の次男で「林城築城時の最初の城代であった」という説もあります。林町会には《藤助屋敷跡》と伝わる場所があります。
この藤助の末裔の第17代忠崇の話が、一昨年NHKの《歴史秘話ヒストリア》で取り上げられ、全国的に大きな話題となりました。
藤助は小笠原清宗の次男で「林城築城時の最初の城代であった」という説もあります。林町会には《藤助屋敷跡》と伝わる場所があります。
この藤助の末裔の第17代忠崇の話が、一昨年NHKの《歴史秘話ヒストリア》で取り上げられ、全国的に大きな話題となりました。

