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里山辺かるた「き」
更新日:2026年10月20日更新
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重文開智学校は『ギヤマン学校』として名を馳せています。対する我が山辺学校は『障子学校』と呼ばれていたことをご存じでしょうか?開智学校は当時の筑摩県(ちくまけん)が威信をかけて、明治9年に贅を尽くして建てたのに対して、遅れること10年後の明治19年に、こちらは地域住民の熱意で寄付のみで建築されました。当然のことながら経費もかけられず、開智学校の70パーセントほどの規模です。大工棟梁(とうりょう)は立石清重の下で開智学校建設に携わった地元の大工、佐々木喜十です。「費用は掛けずとも後世に恥じぬ建物を」という気概(きがい)が見てとれます。簡素ながらすっきりとした美観の擬洋風建築です。

よもやま話(山辺の誇り『障子学校』)
(令和元年12月1日の記事)この度「近代学校建築」としては初めての国宝に開智学校が指定されました。「ギヤマン学校」として親しまれています。
開智学校が明治9年に建てられて10年後、地域住民の熱意の寄付のみで建設されたのが、我郷土の誇り「山辺学校」です。
大工は立石清重の下で、開智学校建設にも携わった地元の大工佐々木喜十です。全額地元住民の寄付ということで、当然のことながら経費もかけられません。「経費をかけずとも後世に恥じぬ建物を」の気概で建設したと伝わります。窓はガラスのかわりに障子を用いたため「障子学校」と呼ばれ、親しまれました。
開智学校が明治9年に建てられて10年後、地域住民の熱意の寄付のみで建設されたのが、我郷土の誇り「山辺学校」です。
大工は立石清重の下で、開智学校建設にも携わった地元の大工佐々木喜十です。全額地元住民の寄付ということで、当然のことながら経費もかけられません。「経費をかけずとも後世に恥じぬ建物を」の気概で建設したと伝わります。窓はガラスのかわりに障子を用いたため「障子学校」と呼ばれ、親しまれました。

