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里山辺かるた「い」
更新日:2026年10月6日更新
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684年、天武天皇が行宮造営(あんぐうぞうえい)のために調査を命じたと『日本書紀』にありますが、この『束間の湯』が湯の原温泉か浅間温泉かは議論の分かれるところです。平安時代に、宮廷歌人の源重之(みなもとのしげゆき)が「いずる湯の わくにかかれる 白糸は 人絶えぬ ものにぞありける」と詠んでから、湯の原温泉を『白糸の湯』と称するようになったといいます。湯の原には殷富門院大輔(いんぶもんいんのだいぶ)の「わきかえり もえてぞおもふ うき人は 束間のみ湯か ふじのけむりか」の歌とともに二つの歌碑が建っています。『束間』は後に『筑摩』の字があてられました。
よもやま話(日本に誇る天下の名湯”束間の湯”)
今から1330年前の684年、天武天皇が行宮造営のため調査を命じたと『日本書紀』にあります。この《束間の湯》は浅間温泉だという研究者もいます。根拠は「すぐ隣に山辺より湯量豊富な浅間があるのに不自然」というものです。
しかし、私たち山辺の住民は今の《美ケ原温泉》と信じて疑いません。何故なら『束間』は『筑摩』だからです。山辺の歴史は古いのです。平安時代の宮廷歌人源重之は、湯を白糸に例えています。『白糸の湯』の呼称はここからきたといいます。
殷富門院大輔も悩ましき恋歌を残しています。やはり《山辺の湯》は私たちにとって「由緒正しき名湯」なのです。
しかし、私たち山辺の住民は今の《美ケ原温泉》と信じて疑いません。何故なら『束間』は『筑摩』だからです。山辺の歴史は古いのです。平安時代の宮廷歌人源重之は、湯を白糸に例えています。『白糸の湯』の呼称はここからきたといいます。
殷富門院大輔も悩ましき恋歌を残しています。やはり《山辺の湯》は私たちにとって「由緒正しき名湯」なのです。

