本文
1970年から1974年の写真
このページでは、1970年から1974年の松本市の写真を掲載しています。
目次をクリックするとその年の見出しへ移動します。
各年の最後の部分からこのページのトップに戻ることができます。
目次
昭和45年(1970)
旭町保育所
当時、民営(民生助成会)だった保育所の公営化を掲げて当選した深澤松美市長。旭町保育所の園児との記念のショット。 (4月)
女鳥羽川一斉清掃
女鳥羽川一斉清掃の写真。市民ボランティアの輪が急速に拡大して行った時代です。 (4月)
松本市民会館前のライラック公園
市制60年と明治100年を記念して市民会館前に造られたライラック公園。松本に春を告げるこの花の発案は、鈴木鎮一先生。新市民会館の建設に伴い、このライラックは街路樹として植え替えられ、一部は、まつもと市民芸術館の屋上庭園に植えられました。 (4月)
中山霊園
昭和43年10月に入魂式を行った中山霊園。この事業、もともとは、市街地の都市機能を整備するため、仏教和合会の協力で市街地の墓所14万2千平方メートルを集中移転したものです。霊園の造成に自衛隊の施設隊が協力したことを知る人も今では少なくなっています。(5月)
子供の遊び場開設式
急激な都市化に伴い、遊び場も減った子どもには受難の時代。薄川の右岸の市道を子どもの遊び場に開放するという、今から思えば苦肉の策。 (5月)
水害
水害で崩れた奈良井川の堤防。消防団のみなさんが警戒と復旧にあたります。遠望の2本の煙突は、島内平瀬の清掃工場の50mと45mの煙突。(6月)
ナワテ通り
昭和45年当時のナワテ通り。パラソルや椰子が南国の雰囲気と涼しさを演出しています。(7月)
コンピュータ
昭和45年9月、市役所の電算室で「電子計算機(FACOM230-20型)」が稼動を開始。県内他都市に先駆けて松本市が自主導入したもので、これにより市民課への窓口事務の集中(育児手当、住民調査、学校指定など)が可能になりました。 (9月)
市民祭
昭和45年の市民祭り。大手近代化事業の完成を祝って今町の通りが歩行者天国となりました。(11月)
中央自動車道長野線建設促進大会
西澤権一郎長野県知事も出席して開催された中央自動車道長野線建設促進大会。塩嶺トンネルの建設による中央東線の時間短縮と高速道路建設による「盆地性からの脱却」、ひらたく言えば「陸の孤島からの脱却」が大きな課題でした。 (7月)
裁判所
松本城二の丸にあった「松本地区裁判所」の建物。裁判所の移転に伴い取り壊しが決定されましたが、原嘉藤先生を先頭とする市民運動によって、昭和57年「日本司法博物館」として島立に移転復元されました。(11月)
昭和46年(1971)
あめ市
本町を練り歩く、あめ市の神輿。その後、暫く途絶えていた本町の神輿が平成15年のあめ市から復活、この頃に負けじと頑張っています。 (1月)
寿住宅団地
住宅難に対応するため市では昭和41年度を初年度とする、5ヵ年で市営住宅500戸を整備する住宅5か年計画を策定。国道19号沿いなどに次々と新らしい市営住宅が建てられました。(3月)
国道19号線バイパス
芳川平田から新橋までの約6キロに国道19号のバイパスが完成したのが昭和38年12月。写真は南松本。ところでかつての19号は、平田~出川~南新町~博労町~本町~六九~今町~新橋というルートでした。(3月)
扉ダム
松本の東山部一帯は梅雨や台風の集中豪雨による土砂崩れの危険性が高いため砂防ダムが、牛伏寺川、女鳥羽川、薄川の上流に建設されている。扉砂防ダムは昭和45年に着工し、49年に完成した。(4月)
子どもまつり
昭和46年、第一回の子どもまつり。当初、城山公園で開催の予定でしたが、悪天候が予想され、中央公民館前の広場での開催となりました。(5月)
下水センター
昭和43年に完成した宮渕の下水処理場。松本の下水道整備は昭和25年にスタート。43年にスタートの第2期埋管計画では、50年が目標年度で、対象人口は5万2千人でした。 (5月)
庁舎前時計台寄贈
創立20周年を記念して、中部電力株式会社から寄贈された時計塔。(5月)
駅前
区画整理事業施行前の駅前。当時は建物も低く、美ヶ原はじめ東山(筑摩山脈)の山並みが遠望できました。 (5月)
市長相談
市長と市民が対話する機会は以前もありましたが、それを積極的に活用して定例化したのが深澤市長。就任後、市民生活課を新たに設置し、市民に身近な広報、市民相談、消費生活、ダイヤル1番(迅速な道路補修)など、市民生活に直結した機能を集中させました。 (7月)
南松本踏切
「あかずの踏み切り」と呼ばれた南松本北踏み切り。現在は、やまびこ地下道がとおり渋滞も緩和され、南松本南の踏み切りの立体化が課題となっています。 (7月)
高山市と姉妹都市提携
昭和46年11月1日。同じ筑摩県に所属していた縁で、岐阜県高山市と姉妹提携を結びました。写真は元仲高山市長と記念通話する深澤市長。(11月1日)
昭和47年(1972)
はしご車披露
中央公園で行われたはしご車の披露。近代化事業により、松本にも高層のビルが現れたことによる最新兵器の配備でした。(1月)
市営駐車場竣工
モータリゼーションの到来とともに、中心市街地では駐車場不足が深刻な問題に。写真は、商工会議所横に竣工した先代の市営駐車場。(1月)
働く婦人の家竣工式
勤労者福祉を全面に掲げた深澤市政のもとで完成した「働く婦人の家」(現在のトライあい松本)女性の社会参加、交流の拠点として大きな役割を担いました。長野県では岡谷市に続き2番目でした。(3月)
駅前区画整理起工式
駅周辺土地区画整理事業の起工の日の模様。昭和39年の新産都市指定を受けて構想が具体化。昭和42年事業着手、47年起工式、61年4月竣工。竣工までに降旗、深澤、和合の三代19年の歳月を要しました。(4月)
市制65周年記念式典
昭和47年4月、市民待望の「松本勤労者福祉センター」が完成。この年の市制記念日の式典は、さっそく「キンプク」で開かれました。壇上には、当時の西澤権一郎知事からの生花が見えます。 (5月1日)
松本空港再開
松本・大阪季節便の再開を喜び、大阪からのYS11の飛来を待ち、デッキにあふれる市民。(7月)
市民農園
食の安全を求める家庭菜園ブームに応えて開設した「市民農園」。1区画10坪の農園を安価で市民に貸すこの事業は、大人気を博しました。 (7月)
才能教育全国大会
戦後、鈴木鎮一先生が松本を本拠にしてスタートした「才能教育」運動。「人は環境の子なり」鈴木先生の教育法は全国、世界へと広がり、この年は、夏季学校の開催にあわせて全国大会が松本で開催されました。 (7月29日)
歩行者天国
昭和47年11月3日、文化の日の本町の歩行者天国。晴れの特異日には珍しく、雨あがりで雲が立ち込めアーケードの蛍光灯が目立ちます。(11月3日)
駅前風景の写真
駅前通り。遠くにあがたの森のヒマラヤ杉が見えます。道路右には、増田甲子七氏の選挙事務所。田中角栄内閣のもとで総選挙(第33回、12月10日投票)の最中でした。 (11月25日)
昭和48年(1973)
望楼監視用テレビジョン
丸の内消防署の望楼上に取り付けられた監視用のテレビジョン。通信司令室などの改築に併せて、松本市防火管理協会から寄贈されたもので、24時間360度の監視が可能となりました。 (1月17日)
市民スケート教室
美鈴湖で開催された市民スケート教室。温暖化が進む今日では考えられませんが、当時は美鈴湖が結氷しました。スキーが金持ちの遊びであった時代で、スケートが冬のメインスポーツ。浅間温泉から歩いて来る人もいました。(2月1日)
清掃センター竣工
島内平瀬に1日の処理能力が150tの連続燃焼式機械炉(タクマ)が完成しました。昭和39年完成の焼却炉の寿命は僅か9年。増えつづけるゴミにこの炉も7年で新しい炉に変わりました。(6月1日)
商工会館
完成した商工会館の建物。松本商工会議所、中小相談所、商工中金、消費生活センターなどが入り、商都まつもとの経済の牽引車の役割を果たして来ました。(6月1日)
あずさ衛生センター開所式
松本市・梓川村・安曇村・奈川村・山形村・波田村・本郷村の1市6か村で設立した「西部し尿処理組合」が建設した「あずさ衛生センター」。約15万5千人のし尿を処理しましたが、当時は臭気対策が大きな課題でした。 (6月9日)
並柳の洋菜
並柳のセルリー畑。食の欧米化に伴う付け合せとして、また、ベトナム戦争特需で需要が拡大してセルリーの一大産地と知られるようになり、数々の農業賞に輝きました。(9月2日)
入山辺三城分校(10月1日号表紙)
山辺小学校美ヶ原分校の花壇。この年の生徒数は全員で3人でした。 (9月)
松本城観覧者700万人突破
この年、松本城の観覧者数が700万人を突破しました。黒門の枡形は、まだ、復元されていません。 (10月2日)
三才山トンネル関連道路
松本と丸子町、上田市へと続く三才山トンネル関連道路建設工事現場。この道路が完成するまでは、上田方面へは青木峠越えでした。(11月6日)
本庁舎前の松の木
永田武一朗さんから寄贈された50万円で植えられた赤松の木。当時の市役所の前庭は樹木もまばらでした。中央の像は、新産業都市指定を記念して建立された「日本の中央(なか)に立つ」。(12月9日)
石油危機生活防衛対策本部設置
1973年10月17日、アラブ石油輸出国機構は、中東戦争を有利に運ぶため、石油消費国への輸出を削減。石油危機が始まりました。石油の値段は4倍に跳ね上がり、狂乱物価が消費生活を直撃、各地で、生活防衛対策がとられました。(12月12日)
ガソリンスタンド
石油危機を受けて、ガソリンスタンドには供給制限に協力を要請する張り紙が見られます。 (12月12日)
昭和49年(1974)
薄川元旦マラソン
今では、恒例となったすすき川元旦マラソンの第一回のスタート風景。高度成長のひずみの中、自然への回帰や体を動かすことへの志向がたかまり、ジョギングがブームとなりはじめたのもこの頃のことです。(1月1日)
三九郎
松本の冬の風物詩「三九郎」。大きな「三九郎」の横にあるのは「呼び三九郎」と呼ばれる、祭りの始まりが近いことを知らせるものです。 (1月15日)
下水センター
宮渕浄化センター。
中央公園児童遊園地豆電車導入入魂式
お城の北西の隅には、この頃まで児童遊園地がありました。目玉はこの電車。ディズニーランドなんてもちろんない時代。こことデパートの屋上が子ども達のモダンな遊び場でした。新しい豆電車がお目見えし、4月3日に入魂式があったとのことです。
公害測定車購入
昭和49年導入された公害測定車。騒音や大気汚染を測定する機械が搭載されていました。(4月16日)
本郷村と合併
昭和29年の近村13か村との合併後、松本市の大きな政治課題は、本郷村との合併でした。特に、降籏市長の時代には、合併直前で、流れたこともありました。写真は昭和49年3月25日、市役所大会議室で行われた調印式。調印書に署名し、合併調印書を交換して握手を交わす深澤松本市長と三浦本郷村長。
昭和49年5月1日の合併で松本市の人口は16万9503人から18万2399人になり、人口規模で全国95番目の都市となりました。 (5月1日)
弘法山の発掘
松商学園が短大用地として開発をスタートした弘法山に古墳が出現。後に、東日本最古、3世紀後半の前方後方墳であることが分りました。 (5月25日)
水道局50周年記念タイムカプセル収納式
水道局開局50周年を記念して、タイムカプセルが島内水源地に埋められました。当時の文化、流行、風俗・習慣を物語る品々が治められています。開封は、2074年の予定です。(6月4日)
大名町交差点
大名町通り。歩道は付きましたが、シナノキの姿はまだ見えません。時計塔の横には騒音測定器が見えます。(6月5日)
松本市立図書館
市立松本図書館。この写真では閑散として見えますが、夕方や夏休みともなれば、受験勉強の高校生で大賑わいでした。 (6月16日)
はだか祭り
島立堀米の裸まつり。この頃は、まだ、長野自動車道もなく、農村のあぜ道を練り歩く素朴な行事でした。(7月2日)
本郷合併記念緋鮒放流
松本市と本郷村の合併を記念して、女鳥羽川・原橋付近から緋鯉が放流されました。 (7月22日)
美ヶ原ふじさわ山荘完成式
美ヶ原三城に完成した姉妹都市藤澤市の藤澤山荘。海と山の交歓会や自然散策を楽しむ藤澤市民の松本市での拠点となりました。 (8月19日)
浅間温泉国際スケートセンター
本郷村から松本市に引き継がれた浅間温泉国際スケートセンター。屋内リンクが登場するまで、インテル(ドイツ)、メディオ(カザフスタン=当時はソ連内)と並ぶ世界三大高速リンクと呼ばれ数々の記録が生まれました。 (12月1日)