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1960年代の写真
このページでは、1960年代の松本市の写真を掲載しています。
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目次
昭和35年(1960)
消防本部望楼から1
昭和35年頃、当時、今の松本神社のところにあった消防本部の望楼から撮影した写真です。お城と大名町方面ですが、高い建物は全く見えません。
消防本部望楼から2
最初の写真から、順次、時計回りに回転して行きます。中央あたりに埋の橋が見えます。
消防本部望楼から3
望楼の南西の方角。中央手前の二階建ての建物は、松本建設事務所。
消防本部望楼から4
望楼から西を撮影したもの。建設事務所の奥の画面左側中央は、松筑地方事務所の建物です。
消防本部望楼から5
望楼から西北の方向。城山がはっきり見えます。
消防本部望楼から6
望楼からさらに北西へ。低層の民家が密集しています。
消防本部望楼から7
望楼から真北の写真です。正面に見える空地のような空間と横長の建物は、信大病院で、昭和41年に旭町へ移転、跡地に開智小学校と旧開智学校が移転することになります。
消防本部望楼から8
望楼から北東の方向。右上に見える高層の建物は、信州大学。この時代エレベーターがあったのは、信大と市役所など限られた建物だけでした。
消防本部望楼から9
望楼から見た北東の方角。左上に見えるのは戸谷峰です。
消防本部望楼から10
望楼から真東を望む。王ヶ鼻がくっきり見えます。
消防本部望楼から11
望楼から市役所方面の写真。手前は裁判所の建物。高層の建物は皆無で、前年の市役所の一般公開の折に、エレベーター前が長蛇の列となったという話しもうなずけます。
消防本部望楼から12
望楼から南東の方角。復元されたばかりの黒門の向こうに旧博物館の建物。当時の日本勧業銀行(後に第一勧業銀行、みずほ銀行)の建物が右上に見えます。
昭和36年(1961)
NHK・松本放送局
昭和35年4月に開局した、NHK松本放送局。(深志公園)子ども向け番組で人気を博した田端彦衛門さんもここに勤務したこともありました。
蟻ヶ崎住宅団地
高度経済成長の波にのって新しい住宅団地も次々に開発されました。写真は昭和35~36年頃の蟻ケ崎住宅団地。
重要文化財開智小学校
現在地へ移転復元される前の開智小学校本館。女鳥羽川沿いにあり、水害で玄関が開校当時と異なっています。復元にあたり、写真により往事の姿に戻そうという意見とこのまま移築すべしとの意見が文部省で対立。写真復元反対派が欠席する形で、往事の姿に復元されることになったものです。写真は昭和36年当時。
重要民俗資料収蔵庫
松本市立博物館の収蔵庫。この独立した収蔵庫があったことが、後に本田親蔵翁から時計コレクションが贈られることになる一因ともなりました。
松本郵便局
本町の旧日本銀行跡地に移転した松本郵便局。本町にアーケードが設置される前です。郵便局の跡地は日本相互銀行に売却され、その後太陽神戸銀行、さくら銀行となり、平成16年には、長野銀行の建物が建てられました。
消防本部
昭和35年5月に竣工した旧松本市消防本部。お城の北西。現在の松本神社の裏手にあたる場所にありました。
昭和39年(1964)
オリンピック聖火歓迎1
昭和39年はオリンピック国民運動として、松本市も協力し、オリンピック理解・国際理解・公衆道徳高揚・商業道徳高揚・交通道徳高揚・国土美化・健康増進の7つの運動が提唱され推進されました。
10月5日には、聖火リレー松本市実行委員会等の主催で、松本市中央公園広場で「オリンピック聖火を迎えるつどい」が行われました。
オリンピック聖火歓迎2
東京五輪の聖火リレーは全都道府県で行われました。松本市内を通過する時間帯は、小中学校も授業を中断して沿道から声援を送りました。
オリンピック聖火歓迎3
オリンピックが日本に来るのは一生に一度。当時はそんな認識でした。また、東京五輪は戦後復興を遂げた日本が高度成長を経て、先進国の仲間入りをした象徴であり、国民の自負のイベントでした。国民の熱狂も今とは比較にならないほど高く、小中学校でも、五輪期間中、日本の活躍が予想される時間帯を中心に、授業時間も応援学習(?)に切り替えテレビ中継に見入りました。
市民会館噴水完成
旧市民会館前の初代の噴水。初代の市民会館は、現在の八十二銀行松本支店の位置にありましたが不審火で焼失。昭和三十年代の松本市政の課題は、市役所新庁舎の建設。深志公園派と地蔵清水(現在地)派で大激論。地蔵清水派の松岡市長は苦悩の中、市役所で倒れ不帰の客に。結局、市役所は松岡市長が押した現在地に決まり、深志公園に市民会館を建設することになったのでした。
女鳥羽川改修
昭和34年8月14日、台風による豪雨で女鳥羽川が氾濫し、中心市街は泥の海に。この教訓から川幅を拡幅して災害に備えることになり、開智小学校も女鳥羽川畔から現地へ移転することになりました。写真は改修工事の様子で、護岸には松本市渚の木村緑洋が発明考案した間知型嵌入ブロック積が採用されました。
清掃工場火入れ式
昭和39年8月、島内平瀬に完成した清掃工場の火入れ式の模様。元町にあった焼却場の処理能力が1日40トンに満たなかったのに比べ、この工場の能力は60トンでした。今のクリーンセンターの処理能力が1日最大450トンであることを考えると隔世の感があります。当時は、ゴミの量も少なく自家処理が中心でした。(8月18日)
合併10周年
昭和29年の近村13か村との大合併から10年を経た39年の10周年記念郷土芸能大会会場の市民会館前。この頃の公用車は、ポンティアックなどの外車が主流。国産車はいわゆる「幼稚産業保護論」のもと、関税障壁に守られた雌伏の時代でした。
第7回市民祭(旭町中)
第7回の市民祭表彰式典は、旭町中学で開かれています。勤労者福祉センターは、まだなく、会議施設が不足していた時代でした。
チンチン電車
松電の路面電車、浅間線の「チンチン電車」。大正13年から昭和39年までの41年間、駅から浅間温泉間5.2キロを1車両で走りました。県内では唯一の市街地を通る路面電車で、発車の際、運転手がひもを引くと「チンチン」となり、乗客も降りる時はひもを引いて運転手に知らせました。モータリゼーションの進展に伴い、路面軌道が交通の妨げとなり、バス運行に切り替えられました。
昭和40年(1965)
市営プール
市民プールはこの時代、北馬場にありました。今の裁判所の北、松本神社の西側にあたります。(8月)
ライオンズクラブ時計塔を寄贈
「市民の英知と勇気をもってここに理想の都市を建設しよう」降旗徳弥市長が掲げた松本第一主義のシンボル。先年、降旗市長が訪れて感銘した姉妹都市のソルトレークの「This is the place.=ここがわれらの安住の地」のモニュメントの松本版ともいわれます。
オリンピックデー
東京五輪から1年。オリンピックを記念したパレードが行われました。なお、松本の市民体育大会は、世界の五輪、国の国体にならって、始められ、当初は美ヶ原で採火した聖火リレーも行われていました。
松本駅前
昭和40年。懐かしい木造の松本駅舎。当時の主要な通勤手段は、電車とバス。人の多さが目に付きます。
清掃工場
島内平瀬の清掃工場の写真。煙突の高さは、約50メートル。絶え間なく白煙が立ち上っていました。ダイオキシンに代表される公害にまだまだ関心が薄い時代でした。
お城まつり
市民祭、お城まつりの一こま。今も昔もお城は松本の文化の中心。背後に見える黒門は昭和35年の復元です。
松本空港
昭和40年に開港した県営松本空港。開港当初は定期便がなく、季節便の運行のみ。飛行機が来ない空港を市議会で批判された、時の降旗市長は、「森を作れば必ず鳥はやってくるのであります。」の答弁。
昭和41年(1966)
町並(伊勢町1)
昭和40年代の伊勢町通り。昭和40年4月に道の両側の3mの歩道を付ける工事、翌年1月には、アーケードの工事に着手。歩道とアーケードが完成したのは41年9月のことでした。
町並(伊勢町2)
車がまだまだ少なかった時代の買物は徒歩が主流でした。買い物客を雨や直射日光から守るアーケードは伊勢町に限らず、全国の商店街で採用されていました。
町並(伊勢町3)
伊勢町のアーケードは当時「ダイヤモンドアーケード」と呼ばれ、伊勢町で買物をすると赤地に金色のデザインのキラキラ光るダイヤモンドスタンプがもらえました。
町並(本町)
昭和41年に完成した本町通り。車道11.4m、両側の歩道各4mとそれまでの2.2倍に道路が拡幅されました。先ごろ中央西土地区画整理事業が「21世紀の『人と建設技術』賞」を受賞しましたが、この本町の近代化事業も当時、建設大臣表彰を受賞しました。(昭和41年7月)
旧博物館
昭和41年、解体直前の松本市立博物館。市立博物館のルーツは「明治三十七、八年戦役紀念館」。つまり、日露戦争での勝利を記念して明治39年に作られました。後に松本紀念館、松本記念館と呼ばれ、松本市立博物館と改称されたのは昭和27年のことでした。
松本空港
松本空港。季節便以外は、セスナ機による遊覧飛行や訓練飛行が中心でした。
第9回市民祭
市民祭(体育大会)のパレード。大会役員につづいて各地区の旗が続きます。 (7月)
東亜航空季節便
大阪からの季節便が到着。今から見れば小型機でも、当時は飛行機に一生に一度乗るかという時代。飛行機搭乗記念にこんなスナップが必ず撮られました。(8月)
本町通り祭典夜景
道路が拡幅されて、夜の祭典も可能になり、本町に巨大な提灯のタワーが出現。これは秋田から招いた「秋田竿燈」。ちょっと見難いですが大変な人出です。この時代、まだ、松本ぼんぼんはありませんでした。(11月)
第1回農業祭
第1回農業まつりにズラリと並べられたトラクター。農業の機械化、近代化は高度経済成長と表裏一体の関係にあり、農業に近代化の波が一気に押し寄せました。(11月)
特急あずさ号運転
昭和41年12月、全線電化に伴い中央東線に特急「あずさ」が登場。松本・新宿間を3時間45分で結び、東京への日帰りを可能とした「当時の夢の超特急」でした。松本・名古屋間は、この当時3時間9分でした。
昭和42年(1967)
女鳥羽川の清掃風景
昭和42年、女鳥羽川の清掃風景。高度経済成長のひずみから河川の汚染がすすみました。全国的にも水俣病、イタイイタイ病など公害病が報道されるようになりました。
松本城周辺の空撮
昭和42年の松本城上空からの写真。手前には、裁判所(現司法博物館)の建物、右上には遊園地、右下は市民プール、天守閣の左の堀を隔てた公園の円形の構造物はお城の噴水です。
松本駅前風景
再び、松本駅前の風景。右上には大滝山が見えます。駅前から北アルプスが望めた時代でした。
春の交通安全運動
春の交通安全運動。この頃から急激なモータリゼーションが進み、交通事故も右肩上がりで増えつづけていました。(5月22日)
昭和43年(1968)
市立図書館落成
昭和42年12月、竣工した市立松本図書館。明治24年5月、開智小学校内に「開智書籍館」として開設されましたが、以後、武徳殿、松本中学講堂跡、武徳殿、市分庁舎跡と転々とし、ようやく現地に安住の地を求めたのでした。 (1月)
松本城と歩道橋
お城の北側、松本神社の西側道路の反対側から設置されていた歩道橋。景観上の理由により撤去されました。
(1月)
日本民俗資料館開館
昭和43年4月20日、開館を迎えた日本民俗資料館。考古・歴史・民俗・山岳・近代の5部門からなる近代的な資料館として開館しました。 (4月20日)
犀川通船船着場跡
江戸時代の天保3年(1832)から明治35年6月まで、白板から信州新町まで、犀川通船という舟運がありました。松本の特産品の押し絵雛などを運び、新町から牛馬を使って善光寺平に運ばれました。舟運の行程は60キロ、7時間を要しました。篠ノ井線(鉄道)の開通で廃止され、写真は船着場に建てた記念碑の除幕式の模様。
松本空港にYS11登場
松本空港にやってきたYS11型機。戦後日本が唯一手がけたこの国産機は今も現役の名機。開発の指揮をとった東條輝雄さんは、戦時中、松本に疎開していた第一製作所(三菱)で戦闘機の生産・開発に携わっていました。
美ヶ原少年の家落成
昭和43年に落成した「美ヶ原少年の家」。小学生の美ヶ原登山や三城での体験学習の場として親しまれました。現在の美ヶ原少年自然の家は平成9年にリニューアル・オープンしたものです。
本町通り
昭和43年の本町通り。自転車、バイク、人が主役のようです。
姉妹都市提携10周年記念式典
米国ソルトレーク市との姉妹提携10周年を祝う式典。左から三番目は、ユタ州知事を経て大物市長といわれたブラッケン・リー、ソルトレーク市長。
昭和44年(1969)
松本城放水訓練
昭和44年松本城での放水訓練。1月26日の文化財防火デーにちなんでのものです。 (1月26日)
市長選挙開票風景
昭和44年2月執行の松本市長選挙の開票風景。清き一票の上に座り込んで開票している理由は知るよしもありませんが、この選挙で深澤松美さんが僅差で大物市長といわれた降旗市長を破って第十代の市長の座につきました。(2月)
授業風景
昭和44年頃の小学校の授業風景。当時松本市は県内に先駆けて、小・中学校の机、イスのスチール化に取り組み、43年度で完了しました。今、逆に机、イスの木製化が進められていることを考えると複雑な思いです。(3月)
市民課窓口
昭和44年、当時、本庁舎の1階にあった市民課の写真。窓口はかなり混み合っているようです。(3月)
小学生下校風景
小学生の集団下校風景。場所は開智小学校の正門を出たところ。遠くに戸谷峰が望めます。(7月)
市営プール
夏本番。市営プールでの水泳教室でしょうか。(8月)
市役所内仕事風景
市役所市民課窓口。 (8月)
給食センター
昭和43年1月に完成した学校給食センター。当時は、自校給食方式がとられていましたが、学校給食がない学校もありました。学校給食センターは、未実施校と栄養格差の是正を目的としたものでした。完成時の学校給食普及率は、松本は、もちろん100%ですが、全国の小学校の平均は76.8%、中学は42.2%でした。 (9月)
市民祭
昭和44年の市民祭。千歳橋付近から大名町を望むショット。よく見ると歩道も大名町のシンボルのシナノキやナナカマドも植えられる前で、電柱の地中化もされていません。 (11月)
松本市総合卸売市場開設式
昭和44年11月に行われた松本市総合卸売市場の開設式。旧市内に散在していた市場機能の統合、松本駅から南松本駅へ貨物の取扱の移転、商社の移転に伴い、流通機能の集積を図るため総合団地が建設され、A地区に木工関係が、B地区に卸売市場関係を集積したものです。 (11月)