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旧小穴家住宅〔3棟〕

更新日:2022年11月18日更新 印刷ページ表示

(読み方)きゅうおあなけじゅうたく(おもや、しょこ、はなれ)

  • 指定等区分 登録有形文化財
  • 登録年月日 令和4年(2022)10月31日
  • 種別    建造物
  • 所在地   北深志1丁目319番地1
  • 所有者   個人
  • 時代区分  大正時代・昭和時代

玄関ポーチを設けた外観が大正の息吹を示す近代住宅

旧小穴家住宅の建つ場所は、松本城の北側、維新後に江戸詰め藩士の帰郷に伴いその屋敷地として拓かれていった場所である。当時は通り沿いには空地も多く、西向かいの小学校西側には水田が広がっていた。昭和初期に宅地化が進み、商家の別邸や文化人の住まいが多い地域となり、現在は小学校跡に教会や住宅、公民館などが建つ、落ち着いたたたずまいの住宅地である。

この建物の所有者は、建築主である清水氏、昭和初期に小穴喜一氏(弁護士)、昭和29年に猿田氏(菓子の卸売業)、令和3年に現所有者へと変遷している。
清水氏は、伊勢町にあった醸造に関連した商家で、大正8年の『日本全国商工人名録』にある「米穀肥料問屋味噌製造卸 塩屋 清水喜三郎」と考えられる。次の所有者の小穴氏は、松本平では著名な弁護士であっただけでなく、雨堂という号で書をたしなみ、大正3年には市内有志20余人で書道研究のための 「文硯会」を中心となって発足、活動した。昭和11年に敷地の東奥にサナトリウムとして離れを建てている。その後、菓子卸業サルタの経営者である猿田氏が敷地建物を購入し、昭和35年頃アイスクリームの小売りが始まった際に自宅の一角に事務所を建築するため、書庫を南へ移築した。近年、解体を危惧したまちづくり活動を続けている地元建築士らが紹介役となり、保存利用の意思を持つ現所有者に引き継がれることとなった。

主屋

木造平屋建て、西に妻面を持つ切妻に直行する切妻が合わさった和瓦葺きで、外壁は下部を下見板張り、上部を白漆喰仕上げとしている。大正9年以前に建築された。妻壁上部に小窓が付くが、小屋裏の明かり取りで2階は存在しない。特徴的なのは玄関周りで、あめりか屋が明治42年に輸入した住宅のうちの一棟によく似たポーチ・外観を持つ。ポーチに面した壁に波間に浮かぶヨットをデザインしたステンドグラスの窓があり、右手の玄関ドアは内開きである。玄関西面に結霜硝子の格子窓があり、その右手(南)が応接間の三角出窓になっている。玄関から応接間周りまでの木部塗装は薄い水色のオイルペイントで、上部の白漆喰のと取合わせが上品な印象を与える。

書庫

旧小穴家住宅書庫は、初代所有者である清水氏の別邸の附属建築物として建てられたものと推定される。市街地の商売拠点とは別に、町場で多発する火災による被害を分散させるための家財収納庫としていたと考えられる。2代目所有者である小穴氏時代は弁護士という職業上、資料が多くその保管に使っていたという。大正9年以前に建築された。

木造2階建て、東西に妻面を持つ切妻の和瓦葺きで、外壁は現在はモルタル塗りであるが、当時の写真では、漆喰塗りで軒裏は土蔵様に鉢巻の形状であり、猿田氏は「土蔵」と称していた。窓には赤い枠の鉄扉が嵌められ、内側には丸鋼の縦格子がついている。妻壁上部に小屋裏換気の換気口が付く。

離れ

旧小穴家住宅離れは、主屋の東南側、敷地の奥に建てられている。2代目の所有者である小穴喜一氏の家族の療養のために建てられたもので、療養室と介護人の居室とトイレがあった。その後、3代目の所有者である猿田氏が貸家とし、信州大学の学生やスズキメソード(鈴木鎮一が創設した音楽教室)の留学生家族などが住んだ。小屋裏の梁の墨書には施主が小穴喜一氏、大工棟梁が鍛治倉清次郎と書かれており、鍛治倉清次郎は松本平の大工であることが判っている。昭和11年に建築された。

木造平屋建て、東西に妻面を持つ切妻の和瓦葺きで、増築部分の鉄板葺きの下屋根が取り付く。外壁は主屋に合わせた意匠になっており、下見板張りと妻壁の漆喰塗りを基本としているが、東面の増築部分はサイディング張りとなっている。


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