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四ヶ堰と芳川地区の生活を支えた用水路(堰)

更新日:2023年2月9日更新 印刷ページ表示

四ヶ堰と芳川地区の生活を支えた用水路(堰)

認定年月日

令和4年11月4日

保存活用団体

芳川歴史研究会

構成する文化財(関連文化財群)

分水施設

四ヶ堰円筒分水、村井堰、小屋堰、二区堰、二区堰分水、野溝堰、平田堰

円筒分水
円筒分水

二区堰分水
​二区堰分水

四ヶ堰は明治4年5月工事に着手し、総工費は5,500円、内1,000円は松本藩からの補助をとりつけました。延べ32,062人の人夫により、明治5年5月に完成しています。用水路の延長は6kmに及びます。円筒分水は、昭和9年5月24日に完成し、工費は3,000円でした。
円筒分水は芳川小学校の校章や、妖精イメージキャラクター「シカセギン」などに採用されており、地域のシンボルとなっています。

水神碑

水神碑
円筒分水付近に水神碑が建立されています。

百瀬三七翁頌徳碑

百瀬三七翁碑
農業用水の安定供給のため、幾多の困難を乗り越えて恒久堰(四ヶ堰)を築いたのが百瀬三七です。三七翁の偉業をたたえ、大正4年(1915)頌徳碑(しょうとくひ)を建立して、「一郷流栄」の文字とともにその功績を今に伝えています。

ストーリー

 芳川地区は、奈良井川と田川に挟まれているにもかかわらず地下用水に乏しく、集落が形成された時代から域内に用水路を巡らせてきました。奈良井川の河川敷の簡易堰から取水していましたが、用水路は大雨の度に流され、農業用水の安定供給が課題でした。その解決策として、幾多の困難を乗り越えて恒久堰(四ヶ堰)を築いたのが百瀬三七です。四ヶ堰用水は、その後も整備・改良が行われ、円筒分水はそのシンボルとなっています。

 昭和29年、松本市と合併以来、急激な都市化と人口増に伴う開発が続き、かつての田畑は宅地化、あるいは商工業用地になり、残された農地も構造改善事業(圃場整備)により大きく変容しました。現在は、先人が苦労して開発してきた用水路や「小字」に、地域の発展の一端を知ることができます。

活動

 芳川村当時の小字と現在の用水路の地図を作製し、水にかかわる文化財を関連づけて、地域の歴史を知り、訪ねる機運を醸成します。これまでに作成した歴史マップや小学校高学年以上を対象とした冊子「わたしたちの芳川」と併せて、郷土の歩みを知るとともに、新しく芳川地区の住民になった皆さんに学習会等を通じて、地域の成り立ち(歴史)に関心を持っていただきます。芳川小学校4年生を対象に四ヶ堰について学ぶ機会(座学+現地学習)や筑摩野中学校生徒、教諭を対象にした地域の歴史を学ぶ会、また、地域住民や児童センターの学童を対象に、ウォーキングイベントを開催しています。

 住民の皆さんは、毎年、3月と11月に総出で川普請(堰の清掃)を行い、堰の保全、管理を行っています。

資料

位置図
位置図


松本市AIチャットボット