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初市の宝船・七福神人形
(読み方)はついち の たからぶね しちふくじん にんぎょう
初市の宝船・七福神人形
- 指定等区分 市重要有形民俗文化財
- 指定年月日 平成7年(1995年)4月28日
- 種別 風俗習慣
- 所在地 松本市丸の内4-1 松本市立博物館
- 所有者 松本市
万商守護の祭祀・初市の賑わいを伝える
本町五丁目の初市のシンボル
この宝船と七福神人形は、かつて初市の時に本町五丁目が繰り出したもので、平成5年(1993年)6月に同町会から松本市へ寄附されました。宝船は全長5m・幅2m、人形はそれぞれ高さ90cmほどです。
現在の初市は飴市(あめいち)などとよばれ、新春の売り出しという意味合いが強くなってきています。しかし、かつては宮村明神の境内に祀られている市神様を神輿(みこし)にのせて町の中の仮宮に迎え、商売がますます繁盛するように祈る祭礼でした。昭和8年(1933年)に刊行された旧『松本市史』には江戸時代末期頃から明治時代初期にかけての初市の様子が次のように記されています。
本町中町伊勢町の街頭に市神の拝殿を作り、
深志神社境内の市神神社より神輿渡御の事あり、
一丁目神輿・三丁目御幣(ぬさ)・四丁目獅子頭・
二丁目神輿・五丁目寳舟の順序にて練る
この記載から、本町五丁目は渡御行列の殿(しんがり)をつとめていたのが分かります。また、江戸時代の賑わいは、江戸の絵師・菅縉斎(かんしんさい)が天保6年(1835年)に描いた『市神祭之図』(個人蔵)に詳細に描かれています。
昭和10年頃まで初市に登場
宝船と七福神人形は、関係者のみなさんの話によると、昭和初期、おそらくは昭和10年(1935年)頃まで初市に用いられてきたものと思われます。船は組み立て式になっていて、龍頭、龍尾の彫物が船の舳(へ)先と艫(とも)を飾り、「寶」(宝)の大文字を染め出した帆が立てられています。宝船の上には七福神人形がにぎやかに飾られましたが、これらのうち一体(布袋)は紛失しています。人形の収納箱には、「弘化四未年正月」(1847年)の墨書銘があるので、江戸時代末期には用いられていたことになります。宝船の製作年代は不明ですが、写真記録から明治30年(1897年)には既に初市に用いられていたことがわかります。
先に述べたように、飴市は新春の初市であるとともに、市神様の祭礼でもありました。江戸時代末期頃からは近郊の村々からは多くの人出があり、町は人々であふれたものであったといいます。この初市がいつ頃から「飴市」、「塩市」などとよばれるようになったかは定かではありません。現在は、祭礼とともに「あめ市フェスティバル」が開催されており、イベント的な色彩を強め、大きな変貌を遂げているのがわかります。
この宝船と七福神人形は使用年代も明確で、松本の町の初市の賑わいを象徴する資料です。さらに、江戸時代末期頃から昭和初年までに至る、初市の様相や変遷を知るうえで欠くことのできない極めて貴重な資料でもあります。