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徳雲寺跡

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)とくうんじ あと

  • 指定等区分 松本市特別史跡
  • 指定年月日 昭和42年2月1日
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市入山辺4526
  • 所有者 徳運寺
  • 時代区分 室町時代

傑僧雪村友梅を偲ぶ

徳雲寺から徳運寺へ

徳雲寺は、元弘元年(1331年)に山家郷(やまべごう)の地頭である山家為頼(やまべためより)が開創し雪村友梅(せっそんゆうばい)の開山と伝えられます。雪村友梅は、この時、師である一山一寧(いっさんいちねい)が開山した諏訪郡の慈雲寺に住持していましたが、山家氏の招きに応じ徳雲寺を開きました。徳雲寺は、その後衰えましたが、永正年間(1504年~1521年)に折野氏が中興しました。天正10年(1582年)武田氏とともに折野氏が滅ぶと寺は廃絶しました。文禄年間(1592年~1596年)に現在地に移って再興、また嘉永4年(1851年)に焼失、安政元年(1854年)に再建されました。現在は徳運寺と改まり、また開山は臨済宗でしたが現在は曹洞宗となりました。本尊の十一面観音は、毎年1月の厄除け参りには、大勢の人でにぎわいます。

開山の師 雪村友梅

雪村友梅の父は越後(現在の新潟県)の人、母は北信濃の豪族須田氏といわれています。
幼くして鎌倉の建長寺で中国からの渡来僧である一山一寧に学び、18歳のとき中国(元)にわたりました。この頃は、日元関係が悪化していて、日本人であるため処刑されようとしました。この時、とっさに仏光禅師の「臨剣頌」(りんけんのじゅ)を唱えて許されました。のちに元の朝廷から宝覚真空禅師(ほうかくしんくうぜんじ)の号を賜りました。
元徳元年(1329年)頃、40歳で帰国し、慈雲寺二世住職、徳雲寺の開山、その後京都西禅寺の住職、九州萬寿寺の開山、兵庫法雲寺の住職等を歴任し、正平元年12月(1347年1月)に死去、57歳でした。このページのトップに戻る


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