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戸田家廟園

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)とだけ びょうえん

  • 指定等区分 松本市特別史跡
  • 指定年月日 昭和36年1月24日
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市県2-3-5
  • 所有者 松本市、個人
  • 時代区分 江戸時代

藩祖丹波守(たんばのかみ)康長公ここに眠る

四ツ谷東の「お塚」とよばれ親しまれる

松本県ヶ丘高校のすぐ北、四ツ谷東にある戸田家の廟所(びょうしょ)は親しみをこめて「お塚」とよばれていました。昭和30年(1955年)、戸田家当主康英氏からこの廟所が松本市に寄附されたのを機会に、戸田家廟園と改められました。
この廟園は石垣によって囲まれ、さらに東西二区画に分かれています。前面(西側)が外域、後方(東側)が内域です。内域には石垣をめぐらし封土のある「丹波塚(たんばづか)」があり、これは松本戸田家の祖、戸田丹波守康長の墓です。墳上の大きな石造五輪塔には「祥雲院殿一運宗智大居士」と彫られています。
丹波塚の北には光行(後の6代)や光年(みつつら 後の7代)の墓、光領(みつむね 後の8代光庸(みつつね)の弟)やその室の墓、そのほか関係者の碑などがあります。光行の碑には「瑞光院殿祥巌道麟大居士」、光年の碑には「神龍院殿大光啓雲大居士」と彫られています。
戸田家は、元和3年(1617年)から寛永10年(1633年)までと、享保11年(1726年)から明治3年(1870年)までと2度にわたって城主でしたが、城主でこの廟園に葬られているのは、初代康長、後の6代光行、後の7代光年の3人だけです。

墓守寺・前山寺(ぜんざんじ)の長屋門が残る

外域から内域をのぞむの画像
外域から内域をのぞむ

廟園の南側には、安政2年(1855年)に最後の城主9代光則(みつひさ)によって廟所の寺としてここに移された前山寺の長屋門が残っています。戸田氏の松本における菩提寺(ぼだいじ)は全久院で、先の戸田氏は中町に、後の戸田氏は本町の春了寺跡(水野氏菩提寺)に置かれました。9代光則まではここに寺はありませんでした。
前山寺は、明治初年の廃仏毀釈で全久院とともに廃されましたが、廟域内には前山寺の住職の墓などが残り、廟園西隣の墓地には旧松本藩士の墓が多く残っています。

地域で大切に守られる

この廟園は閑静な住宅地の一角にあり、地域のみなさんによって親しまれています。毎年、地区の中学生とPTAのみなさんによって、草取りなどの奉仕活動などが行われています。また北側には児童遊園があり、市民の憩いの場です。
この廟園は、戸田家から松本市に寄附された経過があり、その環境、碑石なども含めて保存されています。江戸時代の大名家の墓制を知る手がかりとして価値の高いものです。このページのトップに戻る


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