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伊深城跡
(読み方)いぶかじょう あと
伊深城跡
- 指定等区分 松本市特別史跡
- 指定年月日 昭和42年2月1日
- 種別 遺跡
- 所在地 松本市岡田伊深1518-ロほか
- 所有者 岡田財産区、松本市
- 時代区分 室町時代~戦国時代
北信濃へ通じる要害の地
伊深城は、岡田地区伊深集落北側、標高911mの山頂に、里山辺の林城(国史跡)の支城として造られました。
現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、明治年間に建立された石尊大権現の石碑があります。主郭からの眺めはすばらしく、晴れた日には正面に木曽谷の入口が見えます。全体に保存も良くまた主郭付近はサクラが植えられて地元の文化財として大切にされています。
築城の時期は室町時代中頃から戦国時代と推定され、城主は後庁(ごちょう)氏とされています。後庁氏は小笠原氏の幕下にありましたが、いつごろか隣接する赤沢氏に滅ぼされ赤沢氏の所有となったとも伝えられます。その傍証資料として『信府統記』(しんぷとうき)に赤沢氏の開基とされる慶弘寺の記述があります。慶弘寺は伊深城の東麓にありましたが、廃仏毀釈のため廃寺となり、今は慶弘寺公園として整備されています。
この城は天文19年(1550年)武田軍の林城攻撃のとき自落しました。
戦国期を通じて府中から東北信への出入口にあたり、稲倉城(しなぐらじょう、市特別史跡)と共に重要な役割を持っていたといえます。