ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育委員会 > 文化財課 > 御殿山小笠原家廟所

本文

御殿山小笠原家廟所

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)ごてんやま おがさわらけ びょうしょ

  • 指定等区分 松本市特別史跡
  • 指定年月日 昭和60年7月18日
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市浅間温泉1175
  • 所有者 個人、神宮寺
  • 時代区分 江戸時代

貞慶・秀政・忠脩、小笠原家三代を祀る

小笠原家廟所は、松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主小笠原貞慶(さだよし)と秀政・忠脩(ただなが)父子を祀った廟所で、3基の五輪塔が建てられています。
3基の五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩で、秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係の深い戒名がつけられています。

秀政と忠脩父子は元和元年(1615年)の大坂夏の陣で戦死し、二男忠政も負傷しました。二人は京都で荼毘(だび)にふされ、忠政は遺骨を奉じて松本に帰城しました。父秀政は埋橋(うずはし)の宗玄寺に葬られ、忠脩は戦死した島立貞正ら七人の家臣とともに浅間の大隆寺跡へ設けた法性寺墓地に葬られました。したがって、この廟所に実際に遺骨が埋葬されているのは、忠脩のみです。貞慶は秀政の父で、天正10年(1582年)に父祖の旧領であった松本地方を回復しましたが、同18年に家督を譲った秀政とともに古河に転じています。
その後、忠政は元和3年に明石に転封となり、また、忠脩の嫡子長次は中津の城主となり、寺を移したので廟所は荒廃しました。現在の五輪塔は、貞享2年(1685年)に荒廃の様を見て嘆いた松本城主水野忠直の呼び掛けにより、小笠原家の旧臣の子孫たちが協力して九尺四面の御霊屋(みたまや)とともに建立されたものです。御霊屋は天保7年(1836年)に焼失し、その後再建はされていません。廟所の大きな石垣は平積形式で古く、往時を偲ばせます。前面の平地は大隆寺、のちの法性寺が建てられた場所です。

なお、里山辺の廣澤寺にも小笠原秀政・忠脩父子の墓所として五輪塔が建てられており、「廣澤寺の小笠原家墓所」として松本市特別史跡に指定されています。このページのトップに戻る


松本市AIチャットボット