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無極寺本堂

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)むごくじ ほんどう

  • 指定等区分 松本市重要文化財
  • 指定年月日 昭和44年(1969年)7月4日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市和田1743
  • 所有者 無極寺
  • 時代区分 江戸時代

名匠・立川和四郎富棟普請の寺

元禄9年(1696年)の無極寺(むごくじ)開山記に、浄土宗和常山無極寺は数度の火災により代々不明とありますが、この頃は境内700余坪、本堂四間半四面の寺でした。
寛政8年(1796年)、本堂の破損が激しくなり再建がはかられました。
寛政11年10月、檀徒の念願一決、諏訪大工立川和四郎富棟に、本堂再建工事請負を依頼しました。富棟は直ちに、「入母屋(いりもや)作りの本堂木取帳・同造作(ぞうさく)本取覚帳」などの設計図を示して普請(ふしん)計画を練りました。翌12年、棟梁富棟は脇棟梁長男富昌と一門を率いて、槌音高く立川流の普請を始めました。当時、富棟は56歳、立川流と立川和四郎の名は諸国に知られていました。しかし、間もなく「最早造作のみに相成りましたが、不作の年続き、檀徒差支え候」。寺の借金も溜り、大工の支払いも滞り、普請は相成り難くなってしまいました。棟上げはできましたが、内部の工事は止み、まして宮彫りなどの鑿(のみ)も錆び、富棟の代には普請の竣工に至りませんでした。
多年月を経て、ようやく規模八間四面の本堂に唐様向拝(こうはい)付、入母屋造、瓦葺の建築が完了しました。その外観はもとより、内部も浄土宗の寺らしく、内陣は極楽浄土を荘厳(しょうごん)し、外陣は安らかにお念仏を唱える御堂となっています。
立川流の技法・彫刻は随所にみられ、江戸時代の貴重な建築が残っています。このページのトップに戻る


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