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浄林寺山門

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)じょうりんじ さんもん

  • 指定等区分 松本市重要文化財
  • 指定年月日 昭和44年(1969年)7月4日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市中央1-24-2
  • 所有者 浄林寺
  • 時代区分 江戸時代

城下寺院の盛時を偲ぶ四脚門

浄林寺は京都知恩院の末寺にあたる浄土宗寺院で、松本城下の伊勢町の中ほど、女鳥羽川沿いに位置しています。現在は繁華街の中にありますが、江戸時代には商人や職人たちの住む町家の中でした。
浄林寺の創建は中世にさかのぼり、中世小笠原氏の創始の寺とされます。石川康長の代に菩提寺(ぼだいじ)となり、廟所(びょうしょ)も建てられました。石川康長が改易となった後入封した小笠原秀政は寺領10石を寄進し、以後歴代城主の厚い信仰を受けました。江戸時代には末寺として浄雲寺・慶林寺・常照寺・善立寺をもつ松本地方の大寺でした。当時は現在より東側にも寺域があり、戸田家の菩提寺であった全久院の西側に隣接していました。
明治初年の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、その後復興されました。現在は昔の観音堂を本堂としており、江戸時代の建造による本山門のほか鐘楼等が残っています。
この山門は元禄年間(1688年~1704年)の作との所伝があります。入母屋造の本瓦葺きの四脚門で、左右に両袖を持ちます。軒は二軒繁垂木で、門の扉は唐戸です。正面には山号清水山の額がかかっています。組物・彫物も優れ、頭貫(かしらぬき)や割束(わりつか)も大ぶりで江戸時代初期の手法がみられます。こうした特徴から、元禄年間に建築との所伝は正しいものと思われます。
なお、現在も残る鐘楼は弘化2年(1845年)の建立で、名工として知られる諏訪の宮大工二代立川和四郎富昌の作です。二代立川和四郎は、この浄林寺の鐘楼のほか、松本地方では和田の無極寺本堂(市重要文化財)の建築に携わっています。なお浄林寺鐘楼の龍の彫物は、三代立川和四郎の弟子で、松本の住人であった原田倖三郎の作です。
浄林寺の山門は、松本地方の寺院の山門の中でも優れたものであり、時代的にも元禄期と古いものです。かつて松本城下で栄えた浄林寺の盛時の面影をしのばせる好資料です。このページのトップに戻る


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