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千鹿頭社本殿

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)ちかとうしゃ ほんでん

  • 指定等区分 松本市重要文化財
  • 指定年月日 平成7年(1995年)4月28日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市里山辺5203
  • 所有者 千鹿頭社
  • 時代区分 江戸時代

随所にみられる松本工匠の技

隣接する二つの社殿

千鹿頭(ちかとう)社は、千鹿頭神を祀(まつ)り、里山辺の林地区の産土神(うぶすながみ)です。本殿の脇には摂社王子稲荷社、本殿の後方には腹神社、富士浅間社、本殿北方には先之(まずの)宮社が祀られています。
境内の建物配置は、千鹿頭山の頂上に本殿と拝殿があり、隣接して社務所があります。なお、千鹿頭山の頂上には林地区で祀る千鹿頭社と神田地区で祀る千鹿頭神社とが併置される特異な境内を形成していますが、これには次のような歴史的背景があります。

千鹿頭山は、近世のはじめまで松本藩領でしたが、元和4年(1618年)、松本藩領の東五千石が高島藩領に分割されることになり、この山の尾根が松本藩領と高島藩領の境と定められました。それまで、千鹿頭神は林村、神田村ほかの村々によって千鹿頭山に祀られてきましたが、このように社領が二分されることになりました。社蔵文書写によると、寛永15年(1638年)の祭事執行には林村、神田村ほかの村名がみえるので、社殿は一社であったことがわかります。その後、現在見られるような、藩領境にこの林村の千鹿頭社本殿と神田村の千鹿頭神社本殿が並べて建てられることになったとみられます。

松本城主の寄進により建立

本殿の形式は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、銅板葺(もと茅葺)の社殿で、棟札や文書から、松本城主戸田光雄から銀七枚の寄進を受けて、元文5年(1740年)正月に手斧(ちょうな)始め、7月に遷宮されたことがわかります。大工棟梁は棟札から松本町下横田町の中根弥七(郎)とわかります。弥七の名前は市重要文化財の牛伏寺仁王門の建立棟札(享保11年(1726年))にもみえており、現存する牛伏寺仁王門を建てた大工によって千鹿頭社本殿が建てられたことがわかります。また、蟇股(かえるまた)の輪郭が仁王門のものと酷似している点でもこのことを裏づけています。

この本殿に随所に18世紀中期の松本の工匠の建築様式がよく示されています。さらに、隣接する神田の千鹿頭神社の本殿が17世紀末期から18世紀前期の諏訪の工匠の様式を示しているのに対し、この千鹿頭社本殿は先に述べたような建築様式を示しています。したがって、彫刻の付け方や絵様の変遷などを、いながらに理解できる点でも貴重な遺構です。なお、棟札などの社蔵資料により、元文5年の建立以降、現在に至るまで何度か修復されていることがわかります。このページのトップに戻る


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