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七夕人形コレクション
(読み方)たなばたにんぎょうこれくしょん
七夕人形(人がた形式)・七夕人形(流しびなの形式)
- 指定等区分 重要有形民俗文化財
- 登録年月日 昭和30年4月22日
- 種別 年中行事に用いられるもの
- 所在地 松本市丸の内4-1
- 所有者 松本市(松本市立博物館)
- 時代区分
武家と町人が育んだ城下町文化
七夕人形の系譜
七夕に人形を飾るという習俗は、現在では非常に珍しく、松本地方のほかには兵庫県姫路市の沿海地域でおこわれていることが知られているにすぎません。松本の七夕人形は大きく四つに分類されていますが、これは二つの系譜に分けて整理することができます。具体的には着物掛け形式と、それ以外の人がた形式、流しびな形式、紙びな形式という分け方です。前者は七夕行事のうち、中国から伝わった乞巧奠(きこうでん)に属するもので、後者は盆行事のはじめの祓(はらえ)の習俗に属するものと考えられます。
七夕に着物を飾る習俗は、昭和30年代には東日本を中心にほぼ全国的に分布していました。着物掛け形式の七夕人形は、現在も京都の冷泉家に伝わる平安貴族の七夕行事にその起源を求めることができます。いっぽう、盆に祖先の霊を迎えるという習俗は現在でも広く全国的におこなわれています。祖先を迎えるにあたり身を清める禊(みそぎ)は、京都の上加茂神社の夏越(なごし)神事があげられます。小さな人がたに氏子の名前を記し、川に流す行事が現在もおこなわれており、流しびな形式の七夕人形は、まさにこの人がたそのものです。また、毎年紙を切って作った人がたを貼り重ねていく、人がた形式の七夕人形も同様な意味をもつと考えられます。
古文献にみる七夕人形
江戸時代中期の国学者・天野信景(あまのさだかげ)の随筆『塩尻』には家々の軒の間に張りわたされた縄に、木で作った人がたに紙の着物きせた人形がいくつも吊るされている様子が記されています。また、天明3年(1783年)に信濃を訪れた紀行家・菅江真澄(すがえますみ)は、その紀行文『伊那の中路』や『くめじの橋』に、女の子が小さな紙の人形をいくつも軒下の、あるいは道にわたした縄に飾った様子を、挿絵を交えて記録しています。さらに江戸時代後期の国学者・喜多村信節(きたむらのぶよ)は『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)に、松本や越後湯沢周辺に菅の人形を飾る習俗があったことを記しています。これらの文献に出てくる七夕人形は、『嬉遊笑覧』の例以外は紙びな形式と考えられます。また、これらの学者が記録に留めているということは、七夕に人形を飾る習俗が、江戸時代においても特異なのものであったことを思わせます。
城下町が育てた人形
松本は城下町です。松本てまり、姉様人形とともに押絵びなが武家の子女により作られたといわれます。七夕人形の発展は、この押絵びなを抜きにしては考えられません。江戸時代の終わり頃に作られた紙びな形式の七夕人形は、顔の部分に押絵びなの技法を用いたものを見ることができます。紙びな形式の七夕人形は、人がたがひな祭りの人形のように、玩具として発展したものと考えられます。押絵びなの顔描き職人は、紙びな形式のほかに着物掛け形式の人形も生み出したと思われます。
七夕人形の保存
重要有形民俗文化財に指定された七夕人形コレクションは、昭和20年代以降それまでの資料に加え、系統的に収集されたものです。指定理由には「七夕行事の変遷を究明する上に極めて重要な資料」とあります。着物掛け形式の人形のなかには、長い足をもつ「足長」などとよばれるものもあります。これは男単体の人形で、雨の日に増水した天の川を牽牛(けんぎゅう)を背負ってわたり、織女と引き合わせるという伝承をもちます。
人形の町・生安寺小路(しょうあんじこうじ)(現在、一般的には高砂町と呼ばれている)は、現在でも夏になると七夕人形が店先に並びます。しかし、現在の七夕人形の生産量は、戦前の5分の1とも、10分の1ともいわれるまでに縮小されています。一度は松本の町から姿を消した押絵びなも、現在はその製作技術が復元されています。重要有形民俗文化財に指定された資料はいうまでもありませんが、武家と町人が一体となって培ってきた、七夕人形や押絵びなを作る技術も、城下町・松本のなかに伝えていくことがこれからの課題です。