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徳運寺〔3棟〕

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)とくうんじ

  • 指定等区分 登録有形文化財
  • 登録年月日 平成26年(2014年)10月7日
  • 種別    建造物
  • 所在地   松本市入山辺4526
  • 所有者   宗教法人 徳運寺
  • 時代区分  江戸時代

廃仏毀釈を乗り越えた堂宇

徳運寺は、松本市入山辺地区にあるお寺です。鎌倉時代末期に、地元の山家氏が、僧・雪村友梅(せっそんゆうばい)を開山として招き、創建しました。なお、創建当時は「徳雲寺」と称していました。明治初年の廃仏毀釈で一時廃寺となりましたがすぐに復興し、現在に至っています。
江戸時代末期には、徳運寺の伽藍はすべて整っていたと伝えられています。しかし、嘉永4年(1851年)の火災で焼失し、現在見ることができる建造物は、火災の後に建てられたものです。
これらの建造物のうち、本堂・庫裏・山門及び高塀の3件が、国の登録有形文化財に登録されています。いずれも建築当初の姿を良く残しており、一体となって境内の歴史的な景観を伝えています。特に、本堂・庫裏は、明治初年の廃仏毀釈で徳運寺自体が一時廃されたにもかかわらず、江戸時代末期に建てられたままの姿で今日に至っています。

現在は、厄払いのお寺としても有名で、毎年1月の中旬ころには厄除観音例大祭が催され、多くの参拝者でにぎわっています。
※徳運寺(徳雲寺)や雪村友梅の詳細は、
「徳雲寺跡」(松本市特別史跡)のページをご覧ください。

本堂

本堂は、木造平屋建て、梁間8間、桁行12間の規模で、近在では大きな建物として目立つ存在です。屋根は、もともと茅葺でしたが、昭和50年(1975年)に改修され、現在は銅板葺となっています。内部の間取りは、八間に分かれており、中央の仏間には須弥壇が据えられ、本尊の千手観音が安置されています。

現在の本堂が建てられたのは嘉永6年(1853年)で、当時の様子を記録している「棟上世話人配役諸事帳」によると、木曽の宮ノ越村(現在の木曽町)の大工棟梁市次郎によって再建されています。その後、何度かの増改築がされたと柱などの痕跡から推測されますが、明治33年(1900年)に出版された「信濃宝鑑」には現在の本堂と同じ姿が描かれており、建築された江戸時代末期の建築様式をほぼそのまま見ることができる建物として貴重です。

庫裏

庫裏とは、お寺の台所にあたり、来客をもてなすための建物を指します。
徳運寺の庫裏は、木造平屋建て、梁間8間、桁行12間と、本堂とほぼ同じ規模の建物です。長野県の中部・南部でよく見られる本棟造(ほんむねづくり)の建築様式で、傾斜の緩い屋根と、その頂点に「雀踊り(または雀おどし)」という飾りをつけているのが特徴です。間取りは玄関のある南側から土間(玄関)、オエ(居間)、座敷という並びになっており、土間の隣には厨房と配膳室があります。また、座敷は下、中、上と三間に仕切られており、下座敷へ外から入る式台(あがり口)の正面には、瑞雲や菊花の力強い彫刻が施されています。
庫裏のつくりや建築部材は、風食具合から江戸時代末期頃のものと考えられています。嘉永4年の火災後の伽藍再建の様子を記した「棟上世話人配役諸事帳」(徳運寺所蔵)によると、庫裏を建てたのは安政3年(1856年)と記されており、建物の状況と一致しています。
その後増改築されていますが、現在も江戸時代末期の姿を良く残している建物で、「おもてなしの空間」として利用されています。

山門及び高塀

山門は、木造平屋建て、薬医門(主に屋根を支える本柱2本と、それを補助する控柱2本の合計4本の柱で建っている門)の様式です。本柱は12寸×9寸5分、控柱は9寸5分×9寸5分の太さで、瓦葺の屋根を支えています。屋根の内側の梁の上には、上棟の際に取り付けられたと思われる小槌と幣串が見られ、笈形(おいがた)という植物を模した彫刻も確認できます。
高塀は、山門の両側から境内の南側と西側を巡り、壁の漆喰の白さが、境内正面の景色を引締める印象を与えます。
山門と高塀の建築年は、「附属建築壇中寄附簿」(徳運寺所蔵)によると、大正8年(1919年)に起工し、大正9年に竣工したことが記録されています。増改築の跡があまり見られず、建築当初の姿を良くとどめている門です。このページのトップに戻る


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