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旧小澤家住宅〔4棟〕

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)きゅうおざわけじゅうたく(おもや、はなれ、きたどぞう、みなみどぞう)

  • 指定等区分 登録有形文化財
  • 登録年月日 令和3年(2021年)10月14日
  • 種別    建造物
  • 所在地   保福寺町246
  • 所有者   合名会社 小澤一てん(つちへんに彖)社
  • 時代区分  明治~昭和時代

保福寺本陣跡に位置。本陣の格式を伝える主屋など

旧小澤家住宅は、松本市の北西部、四賀地区の保福寺町の中心部に位置する。保福寺町は、江戸時代の保福寺通の宿場町(東西の街道沿いに45軒)であり、問屋と本陣を代々小澤家が務めていた。
保福寺通りは古代の東山道にさかのぼるとされ、松本と上田を結ぶ重要な街道であった。江戸時代には江戸街道とも呼ばれ、松本藩の参勤交代の際にもこの道が用いられた。参勤交代の際、藩主は朝に松本城を出発し、保福寺宿の本陣である小澤家で休憩をとり、保福寺峠を越えて上田の浦野宿に止まるのが一般的な行程であった。また、この道は江戸城米の輸送にも用いられ、保福寺宿に集荷して、ここを発送の拠点としていた。
保福寺町における小澤家の由緒については、中世に遡る。信濃国守護小笠原長棟が文亀3年(1503年)に山城の掻揚城(保福寺城)を築き、永正10年(1513年)に番所を設けた際、在番の任にあたったのが小澤縫殿介であった。その後、小澤家は慶長19年(1614年)に松本藩主小笠原秀政に保福寺宿の問屋を命ぜられ、明治3年(1870年)まで問屋と本陣をつとめた。こうした経過から、小澤家の家紋は小笠原家の家紋である三階菱を用いている。
保福寺宿は、明治15年(1882年)に発生した大火で町の大半が焼失した。小澤家はこの大火での焼失は免れたが、明治41年(1908年)の火災では主屋を焼失したと伝わる。現在にのこる主屋や離れ、土蔵群の多くはこの火災後に建設されたものである。令和元年度から主屋と離れの改修工事が行われ、現在は宿泊施設及び喫茶店として活用されている。

主屋

屋敷地の中央にたつ住居であり、明治41年(1908年)の火災での焼失を経て、大正2年(1913年)に再建されたものと伝わる。木造二階建て(一部に三階あり)、梁間16514mm(54.5尺)・桁行16362mm(54尺)の規模、建ちが高い、妻入りの豪壮な建築である。壁は主に真壁造の土壁で、一部に大壁造の角家を設ける。屋根は切妻造の瓦葺き、茶の間の上部に気抜きを設ける。
北面を正面とし、一階は正面に向かって右手(西側)を生活空間、左手(東側)を接客空間として、中央に茶の間を配す。左手(東側)の接客空間は離れと接続し、背面(南面)からは回廊が伸び、雪隠、湯殿(この部分は登録範囲外)と接続する。二階は表二階と裏二階にわかれ、表二階を接客空間、裏二階を居室とする。表二階の上部には、一部に三階を設ける。
正面に妻を向けた建築で、明治41年(1908年)の火災以前にたっていた旧主屋を参考につくられたと伝わる。保福寺町を含む松本市域は、正面に妻面を向けた本棟造の民家が分布する地域であり、正面に妻を向け、正面性を追求した外観は本棟造と共通する。とはいえ、立ちが高く、瓦葺きであるために急勾配の屋根である点は、本棟造の印象から大きく逸脱している。おそらくは、当地域における役人層の建築において継承されてきた、正面性を追求した意匠の最も発展した姿を示しているのであろう。こうした封建的な雰囲気を強くのこすがゆえに、規模や材料などに近代的な要素が見られるものの、近世的な面影を備えている。(松本藩出川組の大庄屋をつとめた中田家住宅の主屋(松本市重要文化財・建設年:明治23年(1890年))も同種の外観をもち、類例としてあげることができる。)

離れ

主屋の東側にたつ別棟の接客施設である。木造二階建て、梁間5454mm(18尺)・桁行8181mm(27尺)の規模、妻入りの建築である。小澤家では新館と呼ばれていた。かつては一階、二階ともに主屋の座敷と回廊で接続しており、主屋の接客空間を拡充するなかで設けられた施設であると解釈できる。木造二階建て、外観は和洋折衷の意匠で、一階に洋室、二階に和室を設ける。昭和前期の建設と伝わり、保存の状況がすこぶる良く、建設当初の姿を保っている。

北土蔵

屋敷地の前面、保福寺通にほぼ面してたつ土蔵で、様式から江戸末期の建設と推定される。木造で、梁間5454mm(18尺)・桁行8181mm(27尺)の規模、内部を二間(北側と南側)に分け、東面にはこれに対応して入り口も二つ設ける。北側は平屋建てで、南側は二階建てである。
外壁は大壁造りの土壁、白漆喰塗り仕上げとし、腰には海鼠壁を設ける。内壁は落とし板とする(北側の落とし板は外されている)。屋根は切妻造の置き屋根で瓦葺きであり、置き屋根は出桁で軒を深くつくり、妻面を塗り込めとする。

南土蔵

屋敷地の奥、主屋の西側にたつ土蔵で、墨書から明治41年(1908年)の建設とわかる。
木造二階建て、梁間4545mm(15尺)・桁行14544mm(24尺)の規模、一階は内部を三間(北側と中央、南側)に分け、東面にはこれに対応して入り口を三つ設ける。二階は一間で、南側から上がることができる。外壁は大壁造りの土壁、白漆喰塗り仕上げとし、腰には海鼠壁を設ける。内壁は真壁造の中塗り仕上げとする。屋根は切妻造の瓦葺きで、軒裏を塗り込める。このページのトップに戻る


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