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小笠原氏城跡(井川城跡・林城跡)

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

 (読み方)おがさわらししろあと(いがわじょうあと・はやしじょうあと)

  • 指定等区分 国史跡
  • 指定年月日 
    • 平成29年2月9日(井川城跡・林城跡大城)
    • 平成31年2月26日(林城跡小城)
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市井川城1-4553ほか(井川城跡)、里山辺5348ほか(林城跡大城・小城)
  • 所有者 松本市・個人
  • 時代区分 室町時代~戦国時代

戦乱の世を駆け抜けた信濃国守護小笠原氏の足跡

 国史跡小笠原氏城跡は平地に築かれた室町時代の居館跡(井川城)と戦国時代に築かれた山城(林城跡大城・小城)で構成されています。

 ※林城跡は大城と小城2つの城からなる山城です。

  • 井川城跡(いがわじょうあと)
  • 林城跡 大城(はやしじょうあと おおじょう)
  • 林城跡 小城(はやしじょうあと こじょう)

井川城跡

 松本駅から南に1キロメートルほどの場所に「井川城」の地名があります。ここは、室町時代(14世紀〜16世紀)に信濃守護小笠原氏が井川城(井川館)を構え、本拠地としていたところです。
 小笠原貞宗は、建武の新政の際足利尊氏にしたがって活躍し、その功績として信濃守護に任じられました。建武2年(1335)には安曇郡住吉荘を与えられるなど、次第に筑摩・安曇に足がかりを築き、国府に対抗して守護の基盤を固めるため、それまで本拠のあった松尾(飯田)から府中(松本)に進出して井川城を築いたと考えられます。おそらく1340年前後の頃と推定されます。
 井川の地は、薄(すすき)川と田川の合流点付近にあり、さらに南から頭無(ずなし)川や穴田川が集まる湧水地帯です。城跡の推定地は頭無川が南側から西側を堀状に取り囲んで流れており、南東の隅には櫓(やぐら)台の跡と伝承される小高い塚があります。
 長らく館跡の実態は不明でしたが、平成25年〜26年に行われた発掘調査の結果、頭無川やその流路跡を利用し堀を周囲に巡らせた南北100メートル、幅70メートルにおよぶ長方形の巨大な盛り土による造成区画が見つかり、内部からは多数の建物の礎石や柱穴とともに、青磁や白磁、青花などの高級な中国産の陶磁器や茶道具が見つかり、守護クラスにふさわしい構えの居館跡が地中に眠っていることが明らかになりました。
 さらに、館跡の周辺には「古城」「中小屋」のように館に関係する地名や、「下ノ丁」「中ノ丁」のように役所の存在をうかがわせる地名もあります。またこれらのほかに「中道」の地名もあり、広い範囲に家臣屋敷や城下の町割、寺社などが広がる壮大な守護の本拠の姿が想像されます。
井川城跡は、出土遺物の年代や出土量から、15世紀前半に最盛期を迎え、その後15世紀後半における小笠原氏の同族内の対立と小笠原氏の山城である林城の築城と連動するかのように収束していき、15世紀末までにはほとんど活動の姿が見えなくなります。一方でそれと入れ替わるように、林城の山麓拠点と推定される林山腰遺跡における活動が活発化することから、戦国時代の動乱が深まる中、15世紀末までに井川から林へと小笠原⽒の本拠が移転したものと推定されます。

林大城・林小城

林大城と小城の画像
大城(左)と小城(右)

 林城跡は大嵩崎(おおつき)集落を隔てて相対する大城(入山辺地区橋倉、里山辺地区林)と小城(里山辺地区林)からなる小笠原氏築城の壮大な山城です。
信濃守護として力をふるった小笠原政康の没後、その跡目を巡って小笠原氏同族内で争いが起きますが、府中を本拠とする小笠原清宗が戦乱の世に備えて15世紀後半に築城したと伝わります。林山腰遺跡をはじめとする山麓の大嵩崎谷周辺を本拠とし、それを守備するための要害である山城を築く様子は、戦国時代の領主の拠点の典型的なあり方を示しています。
 大城、小城は特徴的な縄張り構造をしています。尾根の頂上に設けられた主郭は、周囲に石積みをめぐらせ、側面から背面を土塁で囲んで防御を固めています。山麓に続く長い尾根筋には土塁を伴う堀切(ほりきり)や堀切から続く長い竪堀(たてぼり)を何カ所も設け、堀切間の尾根上には小さな曲輪(くるわ)をひな壇状に無数に連ね、尾根伝いに侵入する敵から城を守っています。
 本拠があったと推定される林山腰遺跡では発掘調査が行われ、15世紀末頃に造成された平場上から大小の礎石建物跡や火災で焼けた中国産や瀬戸産の陶磁器が多数出土しています。平場の造成は広い範囲に及び、現在の集落内には居館の存在を思わせる「小屋」の付く地名や、寺の存在を示す「真観寺」「瑞光寺沢」などの地名が残ることから、谷間には小笠原氏の居館と家臣屋敷、寺社などからなる拠点が存在したと推定されます。また、現在の林集落周辺にも古い地名や道に沿った町割が見られることから、林城城下に広がっていた町の痕跡ともいわれています。
 林城は、天文19年(1550)の武田晴信(信玄)の侵攻によって自落し、以後信玄は平地の深志(ふかし)城を鍬立てして府中支配の拠点とします。32年におよぶ武田氏の時代ののち、天正10年(1582)の武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変により、武田氏の旧支配地を巡って上杉氏、北条氏、武田氏といった名だたる戦国大名による争奪戦が始まりますが、この時、武田氏によって信濃を追われていた林城主小笠原長時の子、貞慶(さだよし)が徳川家康の力を得て旧領を回復し、深志城を松本城とあらため新たな拠点し、城下町を築きます。
 武田氏の侵攻以降、山城と山麓の本拠からなる林城が政治・経済の表舞台に立つことはありませんでしたが、林城の発達した縄張は、天正10年の政変による軍事的な緊張の中で相当な改修を受けたと想像され、今日見る城の構造は山城がその役目を終えた頃の最終的な姿を伝えているものと理解されます。


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