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旧開智学校校舎
(読み方)きゅう かいちがっこう こうしゃ
- 指定等区分 国宝
- 指定年月日 令和元年9月30日
- 種別 建造物
- 所在地 松本市開智2-4-12
- 所有者 松本市
- 時代区分 明治時代
建物の出来は、目今、日本第一等の小学校
随所に見える擬洋風の表現
旧開智学校は、明治6年(1873)5月6日、筑摩県筑摩郡南深志町一番町(現在の松本市中央2丁目)、女鳥羽川沿いにあった全久院廃寺の建物を利用して開校され、昭和38年(1963)3月までの90年間続いた、わが国で最も古い学校の一つです。現存する校舎は明治9年(1876)4月に同所に建築されたもので、『信飛(しんぴ)新聞』第136号(明治9年)は「開智学校は筑摩県内中学区内第一の小学校なれど実に横浜の高島学校よりも広大(おほき)にて、山梨県の師範学校よりも華麗(きれい)で土地(ところ)自慢ではござらぬが建築の出来は目今(ただいま)日本第一等の小学校」と伝えています。
校舎の建築を計画したのは、当時の筑摩県権令(ちくまけんごんれい)永山盛輝(ながやまもりてる)で、地元の大工棟梁、立石清重(たていしせいじゅう)がこれを請け負いました。校舎は明治8年(1875)4月に着工し、翌9年4月22日に新築落成開校式を挙行しています。工事費は約一万一千円で、うち7割が全町民の寄附金によりまかなわれました。校舎の構造は木造二階建、寄棟造、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、中央部八角塔屋(とうや)附の擬洋風(ぎようふう)建築です。新築当初は現存の校舎に12.6m×59.4mの教室棟が逆L字型に配置され、総面積2653平方メートル、児童収容数約1300人の規模を誇りました。擬洋風建築は明治初期の文明開化の時代に花開いた建築様式であり、仕上材からみて、漆喰(しっくい)系と下見板の二つの系統があることが知られています。開智学校の建築は、幕末から明治初年にかけての極めて早い時期に始まった漆喰系に属し、その充実した表現からみてわが国の漆喰系の擬洋風を代表する建物といえます。特に正面中央部の全面に張り出す唐破風(からはふ)附の車寄と八角の塔屋の組み合わせは、ほかの擬洋風建物に類例がないほどです。
立石は設計施工に際し、2度にわたって東京や横浜に出向き、ガラスや建築金物の舶来品を手配したほか、開成学校など東京の先駆的な擬洋風建築を見聞しています。なお、彼の設計施工によるものに、洗馬(せば)学校(明治9年)、長野県師範学校松本支校(同10年)、長野県中学校松本支校(同18年)、長野県会議事堂(同20年)など学校校舎や官公庁の建物があります。
教育博物館としてスタート
開智学校は数次の教育制度の変革により校名も変わり、昭和22年(1947)松本市立開智小学校になりました。昭和36年(1961)に重要文化財の指定を受けましたが、同38年(1963)、女鳥羽川の河川拡幅工事や開智小学校と田町小学校の統合、指定文化財の環境保護ほかの事由により、昭和39年(1964)8月31日に現在の位置に移築復元されました。工事は文化財保護委員会(現文化庁)の監督のもとにおこなわれ、工事費は2873万円でした。昭和40年(1965)4月1日からは、校内で保管していた明治期以降の膨大な教育資料の整理保管にあたるとともに、その一部を展示する松本市立博物館の一施設、教育博物館として生まれ変わりました。
博物館として開館以来40余年を経過し、現在、所蔵資料は約8万点、10か年を費やした『史料開智学校』全21巻の編集・刊行も完了し、今後の活動が期待されます。
昭和62年(1987)には、明治時代の校舎と教育資料がとりもつ縁で愛媛県宇和町(現・愛媛県西予市)の県宝旧開明学校(平成9年に重要文化財指定)と、また平成17年(2009)には、静岡県松崎町の重要文化財旧岩科学校と、それぞれ姉妹館提携を結び交流が始まりました。この交流は行政関係者ばかりでなく、両市民が親善友好を深め、文化財保護や教育文化の進展に寄与し合うことになり、ますます盛んになりつつあります。
令和元年には、近代の学校建築として初めて国宝指定されました。なお、建築関係資料(文書56点、図面7枚)が附指定されています。
利用案内
松本まるごと博物館ホームページ(旧開智学校のページ)<外部リンク>
報告書
- 重要文化財 旧開智学校本館修理移転修理工事報告書(S40)
- 重要文化財 旧開智学校校舎建築編(H29)
- 重要文化財 旧開智学校校舎調査研究報告書(H30)
- 国宝 旧開智学校校舎耐震補強工事報告書(R6)