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若宮八幡社本殿

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)わかみやはちまんしゃ ほんでん

  • 指定等区分 重要文化財
  • 指定年月日 昭和28年8月29日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市筑摩3-6-2
  • 所有者 若宮八幡社
  • 時代区分 安土・桃山時代

かつての松本城鎮守社

若宮八幡社のはじまりは不明ですが、古くから仁徳天皇を祀る社であったといわれます。この本殿は、もともとこの地にあった社殿が破損したのち、寛文10年(1670年)に、城主の水野忠直が、松本城二の丸の西北隅に鎮座していた松本城鎮守社の社殿造営をした際に、氏子の方々が旧鎮守社の建物をもらい受け、解体せずにこの地へ移したものと伝えられています。
この本殿は、小笠原氏が勧請(かんじょう)したと伝えられます。小笠原貞慶が深志城主となり、深志城を松本城に改めたのが天正10年(1582年)頃のことで、天正13年(1585年)には城郭の拡張計画を立てており、社殿もこの頃の造営と思われます。なお松本城鎮守としてこの社殿のほか稲荷神社も祀られていましたが、社殿移転の際新たに同規模のものが新しく作られました。これは現在松本神社の境内に移されており、時代は宝暦年間(1751年~1764年)のものです。
松本城二の丸にあった当時は西向きでしたが、現在地に移されてからは南向きとして立て替えられたことが、柱の向かって左側面妻の大瓶束(たいへいづか)、叉首(さす)竿等の裏側に「北」、右側面の同位置に「南」の墨書が残ることによってわかります。一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、こけら葺(ぶき)の簡素なものですが、室町時代の様式を残しています。昭和56年~57年(1981年~82年)には国・県・市の補助事業として大がかりな解体修理工事が行われました。
城の鎮守の神社として、江戸時代以前のものは全国的にも類例がなく、比較的小さく簡素ですが貴重な例といえます。このページのトップに戻る


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