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筑摩神社本殿

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)つかまじんじゃ ほんでん

  • 指定等区分 重要文化財
  • 指定年月日 昭和5年5月23日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市筑摩2-6-1
  • 所有者 筑摩神社
  • 時代区分 室町時代

三間社流造の筑摩八幡社

筑摩(つかま)神社は古来からこの地に鎮座し、筑摩八幡宮、あるいは国府八幡宮の名でよばれてきました。八幡宮の社号でよばれるようになってからは、祭神は中央の誉田別尊(ほむたわけのみこと 応神天皇)、左方の気長足姫(おきながたらしひめのみこと 神功皇后)、右方の多紀理姫命(たぎりひめのみこと)・狭霧姫命(さぎりひめのみこと)・多岐津姫命(たぎつひめのみこと)の三神であったようです。中世になって小笠原氏が筑摩郡に入ると、源氏の守護神として小笠原氏の厚い信仰を受けました。
筑摩神社は本殿を中心に玉垣がめぐらされ、前方(南)には桃山時代建造の拝殿をもち、宝蔵、額殿、舞殿、かつて筑摩神社の別当寺(神社に付属しておかれた寺院)であった安養寺の鐘楼、神門、鳥居など一連の建造物があります。社域は東西に100間(180m)、南北に66間(119m)といわれ、その大門は遠く南に伸び、筑摩部落の中を走っています。
中世に国府八幡とよばれたのは、平安時代の初めに松本に信濃の国府がおかれたからで、国府の所在地に近いところからその名が生じたものです。別当安養寺の銅鐘(筑摩神社銅鐘 松本市重要文化財)の銘文にもその記名があります。
本殿は松本小笠原中興の英主といわれる政康が永享11年(1439年)に建築・寄進したものです。その後数回の補修がありましたが、室町時代の手法を各所に残しています。
本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、当地方の神社建築の中では最大です。軒は二重の繁垂木(しげだるき)、屋根は緩い曲線の檜皮葺(ひわだぶき)です。正面の階段は四段で、登り勾欄(こうらん)があります。階段を上ると勾欄は左右に伸び、北部の脇障子で止まっています。
室町時代の様式が顕著なものとして向拝・妻飾りの斗きょう(きょうは木へんに共)及び蝦虹梁(えびこうりょう)、登り勾欄の擬宝珠(ぎぼし)の形態などを挙げることができ、後世の補修による部分も、各時代の特色がよく出ています。室町時代の代表的な神社建築です。
拝殿が造立されたのは、棟札から慶長15年(1610年)のことです。三間三間、入母屋造(いりもやづくり)で、屋根は柿葺(こけらぶき)です。床の下に低い基壇を設け、石の土台を廻しています。柱は大面取りの角柱で、檜(ひのき)材です。棟の鬼板には、水野家(松本七万石)の定紋花沢潟(はなおもだか)がつけられていますが、これは水野氏の時代に修理されたことを物語っています。このほかにも後補の箇所が各所に見られます。昭和10年(1935年)には解体修理がおこなわれましたが、正面の一間の向拝(こうはい)はこのとき他所から移して新しく取り付けたものです。
この拝殿は桃山時代のものですが、拳鼻(こぶしばな)の彫り、実肘木(さねひじき)の繰り型、面取りの大きな角柱、蟇股(かえるまた)などによくその特徴が見られます。各所に後世の改造の箇所がありますが、全体的に見て、屋根の勾配もゆるく形のよい拝殿です。このページのトップに戻る


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