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木造十一面観音及両脇侍立像(牛伏寺)

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)もくぞうじゅういちめんかんのんおよびりょうきょうじりゅうぞう(ごふくじ)

  • 指定等区分 重要文化財
  • 指定年月日 大正3年8月25日
  • 種別 彫刻
  • 所在地 松本市内田2573
  • 所有者 牛伏寺
  • 時代区分 平安時代

法灯一千余年、金峯山の厄除観音

牛伏寺はもと鉢伏(はちぶせ)山の中腹にあり普賢院と呼ばれていたといわれます。鉢伏山の山岳信仰から山頂に鉢伏権現を祀り、その里寺的性格があったようです。
天平勝宝7年(755年)、善光寺へ大般若経を奉納する途中、経典を積んだ赤と黒の2頭の牛が倒れて動かなくなったため、2頭の牛を祭ったという伝説から牛伏寺の名がついたといわれます。
牛伏寺の山号・金峯山(きんぽうさん)は、山岳信仰のあった奈良県吉野地方の金峯山に由来するもので、山岳信仰と仏教(真言密教)とが習合した牛伏寺の成り立ちを物語っています。平安時代半ば以降、埴原牧(はいばらのまき)や北内牧を管理した豪族の厚い信仰で牛伏寺が営まれ、山頂から麓までの広大な寺域の各所に仏堂と仏像が配されました。牛伏寺は初め鉢伏山中腹の蓬堂(よもぎどう)という所にあり、建保2年(1214年)から天文3年(1534年)まで堂平の地に移り、その後現在の地に移ったとされます。

廃仏毀釈を免れた平安の秘仏

慶長17年(1612年)の大火で寺堂は全焼しましたが、再建され現在に至っています。諏訪高島藩の所領であったため、松本藩による厳しい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の難を逃れました。厄除観音として知られるこの十一面観音像をはじめ、現在も多くの人々の信仰を集めています。
木造十一面観音像は、秘仏として奥蔵の厨子に納められ、33年に1度の御開帳でしか拝観できません。脇侍の不動明王像・毘沙門天(びしゃもんてん)像は厨子の両脇に安置されています。
木造十一面観音像は、像高152センチメートル、檜(ひのき)材の一木割矧(いちぼくわりはぎ)造で彩色があります。円みのあるなで肩の曲線、衣文の作風など、平安時代末の特徴が見られます。一方で、この時期の仏像の典型的なものに比べると、幅広い面相や、独特な森厳さがあり、密教的な趣に特徴があります。
不動明王像は、像高98センチメートル、檜材の寄木造、彩色があります。一木造の岩座に立ちます。右手に剣を取り、左手に索(さく)を持っています。光背は火焔光背。毘沙門天像は像高76センチメートル、檜材の寄木造、彩色があります。岩座を台座として右足を踏み出した形に立ちます。唐様(からよう)の甲冑(かっちゅう)を身に着け、光背は輪光です。不動明王像、毘沙門天像ともに動きの少ない素朴な像です。十一面観音像とは同時に製作されたものではありませんが、平安時代後期の作です。このページのトップに戻る


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