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小笠原氏城跡
(読み方)おがさわらしじょうあと
- 指定等区分 長野県史跡
- 指定年月日 昭和45年(1970年)10月22日
- 種別 遺跡
- 所在地 松本市入山辺字日影7350ほか
- 所有者 松本市ほか
- 時代区分 戦国時代
信濃国守護小笠原氏の権力を誇る山城群
長野県史跡小笠原氏城跡は次の3つの山城で構成されています。
※林城については「史跡 小笠原氏城跡」をご覧ください。
- 埴原城(はいばらじょう)
- 山家城(やまべじょう)
- 桐原城(きりはらじょう)
埴原城
埴原城は中山地区にある大規模な山城で、複雑な縄張をとどめていますが、築城者や築城の経緯はよくわかっていません。主郭から四方にのびる尾根筋をいくつもの堀切と土塁で分断し、尾根の稜線上には多数の曲輪を連ねます。主郭部は3つの曲輪で構成されています。最も西の曲輪は周囲に石積を巡らせ、部分的に2段築成として高く築いています。南に開口する虎口(こぐち)は敵が簡単に入れないよう内部で屈折する内桝形となっています。3つの曲輪ともに背後には高く土塁を築き、主郭部の背後には大規模な堀切を設けて山頂から続く尾根筋を分断しています。さらに堀切の背後には特徴的な畝状竪堀が設けられ、防御を固めています。また、主郭部に至る道筋も古来の姿をとどめているとみられ、門跡や水の手などの遺構が各所に見られます。
山家城
山家城は入山辺地区上手町(わでまち)の背後の山腹にあります。古くは麓に徳雲寺を開いた諏訪氏系の神氏が山家氏としてこの地に根を張っていましたが、永正2年(1505年)には折野薩摩守昌治が播州明石からこの地に来て小笠原貞朝(長朝の子)に属し、折野山家氏としてここを拠点としました。山家城の城域は広大で何回かの改修をうかがわせ、2の主郭部を有しています。手前の主郭は東西約20メートル、南北22メートルで、背後に5重の堀切を配しています。曲輪の周囲を鉢巻状に巡る石積は、南側で高さが3メートル近くに達し、戦国時代の松本平の山城に特有の石積技術の到達点を示しています。対照的に奥側の主郭は石積を設けず、外周に一段低く帯曲輪を巡らせ、周囲に竪堀を放射状に配置しています。手前の主郭とは築城者や築城時期が異なっていた可能性があります。
桐原城
桐原城は入山辺地区西桐原にあり、追倉沢と海岸寺沢に挟まれた尾根の中腹に立地しています。この地に本拠を置く桐原氏によって寛正元年(1460年)に築城されたと伝わり、林城の支城として山辺谷の監視にあたりました。松本平の山城の中では最も石積を多用する城の一つとして知られ、主郭部の鉢巻石積から西側の段曲輪群、山麓にある蓮法寺跡の石積に至るまで、平石を積んだ石積を随所に見ることができます。主郭は東西約29メートル、南北約27メートルの規模で、背後に土塁を構えています。また、主郭背後の巨大な堀切やそこから斜面を下る多重の竪堀など、尾根筋や斜面からの敵の侵入を防ぐため厳重に守りを固めています。桐原城については、慶長4年(1599年)に描かれた絵図が存在し、麓にある「御屋鋪」の記載は、城主桐原氏の居館跡と思われます。桐原城は、天文19年(1550年)7月15日、小笠原氏の本城である林城や山家城とともに武田晴信(信玄)の侵攻を前に自落しました。