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埴原牧跡附信濃諸牧牧監庁跡

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)はいばらのまきあと つけたり しなのしょまきもくげんちょうあと

  • 指定等区分 長野県史跡
  • 指定年月日 昭和35年(1960年)2月11日
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市中山古屋敷、千石乾田
  • 所有者 松本市・個人
  • 時代区分 平安時代

信濃御牧の典型例

平安時代に編さんされた『延喜式』(えんぎしき)に、左右馬寮が所管で、皇室の用馬を放っている牧場名が記されています。「御牧」(みまき)とよばれて信濃と東国3ケ国に32牧が設けられていました。早く開かれたのは信濃で、時期は8世紀後半、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱直後にあたっています。信濃の御牧数は16と他の3国に比べて桁違いに多く、この頃、信濃は馬産地として有名でした。1牧は100疋(ひき)くらいと規模は小さかった模様で、そのことは牧場の始まりのさかのぼることを意味しています。おそらく、6世紀頃から開かれた在地豪族の私牧で、それが8世紀末になって御牧にして接収されたということでしょう。筑摩郡内の御牧は埴原牧(はいばらまき)と大野牧(おおのまき)で、埴原牧は松本市中山埴原に比定されています。平安時代に入ると国府が筑摩郡に移庁してきているので、国府と距離的に近い埴原牧には牧監(もくげん)がいて信濃16牧を統括していました。牧監は国司の次官に相当する官位を持っていました。
埴原牧が中山埴原に比定された理由は、鉢伏(はちぶせ)山麓という地形が牧場経営に好適であること、「埴原」の地名が残っていること、西に接する田川流域に営まれていた平安時代の集落遺跡から「榛原」(はいばら)と記された土器が出土していること、繋飼場(けいしじょう)とされる施設の存在、牧監庁跡と推測される礎石群が鳥内地籍から発見されたことなどがあげられます。
松本市立考古博物館から見える水田は『類聚三代格』(るいじゅうさんだいきゃく)に記されている埴原牧田六町なのかもしれません。その南に接する緩傾斜面が放牧地域で、山手に入って古屋敷と千石地籍、さらにその奥の牧の内に階段状の平坦面が構築されています。水田経営ができない地形であってみれば棚田ではなく、かつて牧官屋敷とよばれていたことも考え合わせ、繋飼場跡と推察されています。古屋敷の施設は6段あって各段の1辺は20間強、千石地籍のそれも6段で規模もほぼ等しいものです。
これらの施設の築造年代はわかっていません。調査は表面観察だけなので、将来発掘調査を行えばさまざまな新事実が判明することでしょう。このページのトップに戻る


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