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中田氏庭園

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)なかたしていえん

  • 指定等区分 長野県名勝
  • 指定年月日 昭和54年(1979年)3月22日
  • 種別 名勝地
  • 所在地 松本市出川2-23-4
  • 所有者 個人
  • 時代区分 江戸時代

見事な調和、建物と庭園の一体感

古い歴史をもつ中田家
中田家は中世の終わりから善光寺道沿いの現在地に居住し、江戸時代には出川組の名主や大名主を務め、かたわら酒造業を営んでいました。したがって藩政時代は役宅としての構えを整え、庭園を営み、一般民家としてはその規模においても、構造においても優れたものを持っていました。中田家の住宅は、瓦葺本棟造(ほんむねづくり)の母屋と、これに接続する御殿とよばれる書院造の建物からなり、庭園はその南側に築造されています。
江戸時代には藩主の鷹狩りの際などの小休所となったり、明治13年(1880年)には明治天皇北国御巡幸に際し、御小休所となったこともありました。

文人の称えた庭園
庭園はこの二棟の南にあり、御殿と前後して築造されたものと思われ、随所にこの時代の特徴が見られます。広さ約587平方メートルで、池と築山が主体となり、池には鶴島と亀島の二島が設けられ、各々に石橋がかけられています。中央部には石組みの滝、築山があり、堂々たる立石が各所に配されています。また楓(かえで)、榎(えのき)、杉、松などで美しい樹林も作り、林泉配石に要を得た、趣のある美しい庭園です。江戸時代には文人墨客が訪れることも多く、松本藩戸田家の儒者木澤天堂はしばしばここに遊び、この庭園の美を称えた「鶴亀日記」を遺しています。
中田家の住宅二棟と庭園は、同家の歴史を背景として持ち、また庭園と建物とが一体となって共存している点で大変貴重です。江戸時代から明治時代にかけての街道筋の上級民家のあり方を知る上での重要資料です。

歴代城主も訪れた御殿
中田家に残る家譜には、天和・貞享年間(1681年~88年)に火災にあい、諏訪・高遠両藩内から良材を求めて建物の普請(ふしん)をおこなったとの記録があります。御殿と呼ばれる書院造の建物は、このときのもので、貞享(じょうきょう)年間(1684年~88年)頃の建築と思われます。城主の小休(こやすみ)所、また明治天皇の御小休(おこやすみ)所はこの建物の庭園に面した座敷が用いられました。この建物は、こうした特別の機会のための、いわば離れの座敷としての性格を持つものです。

豪壮な本棟造りの母屋
本棟造の現在の母屋は、明治23年(1890年)に新築されたものです。本棟造は、江戸時代中期以後この地方の上級民家として流行した建築様式ですが、その最も発達した大規模のものです。良質の欅(けやき)材をもって柱立てをし、軒高く瓦葺きで、その平面は間口・奥行きとも10間(約18m)の方形で、書院造の御殿の東側に接続しています。軒が高く豪壮な建造物で、同じ本棟造りの馬場家住宅主屋とはまた違った美しさを見ることができます。

公開時期と問合せ先

5月~11月上旬 9時30分~17時00分 (要予約)このページのトップに戻る

見学のお問合せ・予約は、松本市立博物館(電話0263-32-0133)へ


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