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旧山辺学校校舎

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)きゅう やまべがっこう こうしゃ

  • 指定等区分 長野県宝
  • 指定年月日 昭和60年(1985年)11月21日
  • 種別 建造物
  • 所在地 松本市里山辺2932-3
  • 所有者 松本市
  • 時代区分 明治時代

「障子学校」、我等が村の学び舎

モデルは開智学校

旧山辺学校は明治6年(1873年)、兎川(とせん)学校として発足しました。当初は、兎川寺(とせんじ)の本堂を借りて校舎としていましたが、明治18年、当時の里山辺・入山辺の両村により新校舎が建築されました。

校舎の大工棟梁は地元里山辺上金井出身の佐々木喜重(きじゅう)でした。佐々木は明治9年の開智学校の建設に携わっており、この校舎も開智学校をモデルとして建設されました。新築費用は里山辺・入山辺両村が力を合わせ、村費と寄附金ですべてがまかなわれました。

兎川学校は明治19年に山辺学校、明治22年に山辺尋常小学校となり、昭和3年(1928年)までこの校舎が利用されました。その後、校舎は里山辺村役場として使用され、昭和56年から実施された保存復元工事を経て、現在は山辺学校歴史民俗資料館として公開されています。

「障子学校」とよばれる

校舎は木造二階建、屋根は桟瓦葺(さんがわらぶき)、入母屋(いりもや)造で、屋根の中央に八角形平面の塔屋が載っています。一階正面中央には入母屋造の玄関(車寄せ)がつけられています。一階の間取りは、十文字に中廊下を設け、その両側に職員室及び教室を設けています。二階は、正面からみて左側に講堂に相当する大きな部屋を設け、右側は中廊下をはさんで教室を配しています。外部は隅柱のみ見せた漆喰(しっくい)塗り大壁造とし、障子引違い窓(現在は管理のためガラス戸を併用した二重窓)をつけ、木製ドアをつけています。内部は漆喰真壁造で、板張りの床・竿縁天井を用い、木製引違い戸を出入り口に立てています。屋根は民家風の出桁(だしげた)構造を用い、繁垂木(しげだるき)の軒裏を表しています。外壁の塗装は、腰壁の部分を石積文様、大棟の胴に雷文を黒緑色漆喰であらわし、外部木部は薄いステイン塗を施しています。

モデルとなった開智学校と比較すると、山辺学校は全体的に簡素な作りとなっています。開智学校は窓にガラスを用いていたのに対し、山辺学校は障子を用いていたことから、開智学校は「ギヤマン学校」、山辺学校は「障子学校」とよばれていたといわれます。

明治開化期の学校建築の中でも、伝統的な日本建築の手法と洋風の手法を巧みに融合させて、斬新な建築表現を生み出した点で優れています。
 
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