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銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像

更新日:2021年12月20日更新 印刷ページ表示

(読み方)どうぞう あみだにょらい および りょうきょうじ りゅうぞう

  • 指定等区分 長野県宝
  • 指定年月日 平成30年2月13日
  • 種別 彫刻
  • 所在地 松本市和田境1317(西善寺)
  • 所有者 西善寺(管理:西善寺檀信徒会)
  • 時代区分 鎌倉時代

廃仏毀釈をくぐりぬけた善光寺様

和田境にある西善寺は、もと天台律宗淨発願寺(開山彈誓(たんせい)上人、中興四世空譽上人、叡山寛永寺凌雲院末)の末寺でしたが、天和3年(1683)に中興された寺歴以外の、開基・年歴などは不明です。現在は庫裏(くり)と一体となった本堂が残っています。松本清水の念来寺(淨発願寺末、開山・彈誓三世長音上人)が明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった際、天領にあった同宗同派の西善寺に仏像や貴重な什物(じゅうもつ)の数々が移されて、今に伝えられています。廃寺の前夜、仏像や什物を荷車で運び出した人々は、西善寺の本堂に念来寺の本尊(阿弥陀如来坐像)を安置しようとしましたが、あまりにも大きすぎて本堂に入れることができず、泣く泣く光背を切り落として安置したというエピソードは有名です。(このエピソードの阿弥陀如来坐像は「西善寺の木造阿弥陀如来坐像及両脇侍(きょうじ)立像」として、光背が切り落とされたままの姿で松本市重要文化財に指定されています。)

この三尊像はもと筑摩神社別当寺(神社に付属しておかれた寺院のこと)の安養寺に安置された仏像でしたが、同寺が戦火により廃絶したあと、江戸時代になって清水の念来寺に移され、さらに西善寺に移されたものといわれます。
長野市の善光寺の本尊である金銅製阿弥陀如来・両脇侍立像の形式にならって作られた、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像(善光寺如来)の一つです。善光寺信仰は、平安時代末から鎌倉時代にかけて全国に広まりました。それにつれて善光寺式阿弥陀三尊像も多数作られ、各地に現存しています。中尊に阿弥陀如来、左右に観世音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)を従え、その後ろに一つの光背がつけられる形式(一光三尊式)をとることが特徴で、そのほかにもいくつかの形式上のきまりがあります。
西善寺の三尊像は、一光三尊式をとるほか、仏像の姿なども善光寺式阿弥陀三尊像に通有のものです。中尊は像高49.2cm、両脇侍はともに35.4cmを測ります。三尊とも火を受けており、中尊は顔面から衲衣(のうえ)にかけて、また右脇侍は宝冠から顔面にかけて損傷が著しいです。中尊の両手は後世の補修によるものです。また、台座と光背も後世に補われたものです。
中尊、脇侍像とも切れ長の目や小ぶりの鼻、唇を浅く刻む顔立ちを見せ、着衣の袖口や天衣の衣摺(きずり)などはかなり形式的に整えられています。こうした作風から、本三尊像は鎌倉時代末頃の14世紀前半の作と思われます。

秘仏とされており、普段は本尊・阿弥陀如来坐像の向かって右側壇上にある厨子の中に安置されています。かつては、毎年1月7日の七草の日に御開帳されていましたが、現在は1月上旬の休日に御開帳され、多くの人が訪れています。このページのトップに戻る


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