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野麦街道と集落と集落を結ぶ里道

更新日:2023年2月20日更新 印刷ページ表示

 

~交通の要衝として発展を遂げたあたらしの郷~

認定年月日

令和3年(2021年)3月30日

保存活用団体

新村地区文化財保存会
あたらしの郷協議会

構成する文化財(関連文化財群)

野麦街道

野麦街道

根石の道標

根石の道標と道祖神
​高さ38cmの楕円形の自然石に「左ハ大つま 右ハまつもと」と刻まれている。急な坂を下って横道を通り渡船場へ。梓川にまだ橋が架かっていなかったので歩くか舟で渡った。横道との分岐点に道標と道祖神が立つ。

新村の道路元標

新村の道路元標
​野麦街道と中村道との分岐点、元新村役場前に「新村 東筑摩郡道路元標」と刻まれた道路元標がある。新村の道路元標は大正11年(1922)に長野県の施策によって設置された。昭和5年(1930)まで新村役場はここにあった。

北新(きたにい)高札場跡・常夜燈
里道(りどう)(仁科道、高綱道、横道、大妻道、中村道、上手町(わでまち)道、上新(かみにい)中道 他)
仁科道

仁科道
仁科道はその一、二、三あり。島内小宮境~本田、東新東村を経て和田村に至る。

高綱道

高綱道
県道野麦街道南新北安塚~東新を経て島立村に。

横道

横道
野麦街道南新根石~大妻に至る。

大妻道

大妻道
仁科道その二下新向新田~南安曇郡倭村へ至る。

中村道

中村道
野麦街道北新東村役場前~南新掲示場前

上手町(わでまち)道

上手町道
二等里道。仁科道、下新本田~北新中村で東新道に合流する。

大妻前の渡し
徳利川(とっくりがわ)橋
かぎのて(北新西村 など)

道祖神

21体(祭りは子ども会)

道祖神

石造物

上手町出土の板碑​

昭和7年(1932)下新上手町の屋敷から三面の板碑が出土した。材質は緑泥片岩(りょくでいへんがん)。うち1面は梵字三字と「貞和三年(1347)四月十三日」の銘が刻まれている。松本付近で銘のある板碑の出土は唯一。長さ49cm。現在、松本市立博物館に保管されている。

新村山の大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)
秋葉山大神のほか講の碑
上新の馬頭観音群と観音講

上新の馬頭観音群と観音講
大正12年(1923)に現在地に集めた。馬頭観音16体(文字13体、像3体)と「天明六午月日(1786)講中」と刻まれた如意輪観音像がある。中ほどにある馬頭観音が最も大きく古い(天保15年(1844))。毎年3月に20数軒で観音講を行っている。

馬頭観音群(安塚、北新西、南新東)(安塚の馬頭観音祭り)
等順・祐天の名号塔(北新西)
徳本の名号塔(5基)
南新天明社の石仏群

南新天明社の石仏群​​
小野神社参道入り口前に、神像や行者像や馬頭観音などの石造物が並ぶ。その中に「天明さま」と呼び、穂高の有明神社の開祖といわれる天明行者像がある。それは一本歯の下駄を履き、手には鈴を持つ。今も講の人々で祀る。

養蚕・製糸

小野製糸工場跡・大きな繭蔵跡

小野製糸工場跡
小野製糸所は明治7年(1874)に創業。明治11年(1878)に器械製糸所となるが、動力は水力による。明治32年(1899)に繭の乾燥・長期保管のために三棟の繭蔵を建てる。南二棟は昭和4年(1929)に取り壊し、北一棟は平成29年に取り壊した。

養蚕・蚕室
蚕神碑

明治21年(1888)に安塚で建立した養蚕の神様の碑。明治になると養蚕が盛んになり、なかでも長野県は良質な生糸の産地として知られた。しかし、養蚕は病気で全滅する危険もあり、蚕神、蚕玉様などと言って養蚕の神を祀り、大当たりを祈願した。

繭玉様の祭り

社寺

専称寺
本堂、観音堂、鐘楼、山門、石造物(徳本の名号塔、百体観音像、六地蔵像、石灯籠)

山門 徳本の名号塔、百体観音像
​間口10間、奥行10間と大規模な本堂は近在では最大級。入母屋造り、唐破風向拝(からはふこうはい)付、廻縁(まわりえん)付。本堂には本尊阿弥陀如来のほか薬師如来、子安地蔵尊、子育呑龍上人(どんりゅうしょうにん)などが奉安されている。昭和の初め群馬県大光院より呑龍上人を勧請したことから、当山を『呑龍様』とも呼ぶ。徳本一行は文化13年(1816)6月29日新村専称寺に来た。その日の化益(けやく)で配布した名号数5598枚に及んだという。専称寺ではこの日名号塔造立願を出したが一か月半後に住職珠誉が亡くなったためか、11年たった文政10年(1827)に新五か村で造立した。塔の高さ234cm。

花祭りほか年中行事)
岩崎神社(本殿、拝殿、蚕玉社、川干の神事ほか年間祭祀、棟札、薙鎌)

岩崎神社
​川干しの神事は全国的にも珍しいという。岩崎大明神にお供えする第一は川魚。以前は7月15日本祭りの早朝、魚を獲るために栗林堰や榑木堰をせき止めたので下流の村々と争いが絶えなかった。今は4月29日が本祭り、川干しの神事は新村堰で行う。

小野神社
本殿、拝殿、秋葉社(秋葉社内日吉社)石灯籠と参道、例大祭ほか年間祭祀

小野神社
​小野神社の参道は約100m(1町=60間)と長い。この長さは条里制にかかわる長さ。この参道には古木と若木の桜が植えられ、花の時期には見事な花のトンネルとなる。木々の間に7対の石灯籠が並ぶ。鳥居の奥には天保3年(1832)の対の常夜灯が、玉垣の中にも13基の石灯籠がある。小野神社も岩崎神社同様、水の神、農耕の神、風の神などを祀り、後に小野社を勧請した。

法伝寺跡

下新(しもにい)の庚申堂(庚申祭り、花祭り、お十夜)

庚申堂
下新庚申堂の本尊は一面四臂(いちめんよんひ)の石造青面(しょうめん)金剛像。像の左右に「元禄十四巳天(1701)、九月八日下新村中」と刻まれている。腰には蛇を巻き、足元に二猿・二鶴を刻む。堂は集落の集会所に使われた。堂前に二十三夜塔がある。

上手町の阿弥陀堂(庚申講、念仏講、戸隠講、三峯講)

下新阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来像で近世初頭の作。明治初年(1868)出川の孝道和尚がここに安置したという。堂前には徳本の名号塔などがある。近くの屋敷から貞和3年(1347)の板碑が出土している。上手(わで)町には古い町割が今に残る。

清浄院(しょうじょいん)

清浄院
​清浄院は明治3年(1870)頃の廃仏毀釈の難に遭い僧侶は帰農し、建物は売られた。この時、青面金剛像などの石仏5体も二つに割られた。堂の前庭には祐天の名号塔や、道路拡張などにより集められた馬頭観音が20体ある。

安塚の薬師堂(痩馬(やしょうま)作り、花祭り、お十夜の大数珠回し)

安塚の薬師堂
​平成24年に薬師堂は改修され、お十夜の大数珠回しが復活した。薬師堂は安塚の人々の集いの場であり、かつては近隣からの参詣者も多かった。隣接地には庵主(あんじゅ)の無縫塔(むほうとう)や「当村女中」と刻まれた寛保2年(1742)の名号塔(みょうごうとう)がある。

​信入院(お十夜法要)

信入院
​北新信入院は三明山専称寺跡地に建つ。専称寺が安塚に移るとき境内にあった信入院や長養軒の寺中二か寺も移築した。北新中村の跡地には寛政11年(1799)に観音堂が建てられた。信入院境内に徳本と徳住の名号塔がある。

東新(ひがしにい)の大日堂
灌仏会(花祭り)、お盆の法要、お十夜

大日堂は東新地区の最西の地、共同墓地の中にある。堂は平成10年(1998)に建て替えられた。本尊は大日如来像(二体)。うち一体は素朴で地方色の濃い像、他の一体は均整が取れて中央色が濃い。境内に元禄6年(1693)の念仏供養塔がある。

祝殿

若宮社

若宮社

諏訪社(例大祭)

諏訪社

刀利社

刀利社

天白社(例祭)

天白社
矢野同姓7軒で祀る。明治9(1876)年の『地引帳』に「天白社地 6歩 地番3143 字天白」とある。7月の例祭には天保9(1838)年の銘のある幟を立て五穀豊穣・家内安全を願う。ほ場整備の際、現在地に移り、令和2年に祠を改築した。

社宮司社(お祭り)

社宮司社

遺跡・古墳

物ぐさ太郎遺蹟地(物ぐさ太郎像、折口信夫の歌碑、腰掛け桜、ものぐさ太郎祭り)

物ぐさ太郎像 物ぐさ太郎遺跡地碑
​新村は昭和3年(1928)に『物ぐさ太郎遺跡地碑』を建て遺跡地を整備した。新村物ぐさ太郎保存会は平成3年(1991)に洞沢今朝夫作の物ぐさ太郎像を設置し、折口信夫の歌碑を建てた。

新村遺跡

新村遺跡の碑
松本大学の建設に先だって平成12年(2000)に埋蔵文化財緊急発掘調査が行われ、竪穴住居址48軒や堀立柱建物址9棟などが検出された。今まで不明だった新村の古代が明らかになった。松本大学は、開学十周年の平成24年に新村地区文化財保存会の説明を受けてこの碑を建てた。

安塚(やすづか)古墳第6号古墳

安塚古墳第6号古墳
【松本市特別史跡】​
安塚第6号古墳は、昭和53年(1978)県営ほ場整備事業の際、安塚で9基の古墳が発掘調査されたうちの1基。入口は南向きで前室・中室・後室の三室に仕切られていた。副葬品は少なく、開田のときに荒らされたと思われる。古墳時代後期の古墳で、現地に保存されている。

秋葉原(あきばはら)古墳第1号古墳

秋葉原古墳第1号古墳
​【松本市特別史跡】​​
南新秋葉原第1号古墳は昭和63年(1988)に松本市特別史跡に指定された。この古墳は昭和57年(1982)のほ場整備に伴う発掘調査の際、発見された古墳時代末の円墳。元の位置は約80m南東にあり、南向きに入り口があったものを移転地の都合で東向きにした。

その他

北新のビャクシン(体釼祭(たいけんさい))

北新のビャクシン
【松本市特別天然記念物】​
高さ15m、目通り80cmの巨木、ヒノキ科。手入れ後、樹勢を増した。古くは西牧家の屋敷内、子神社(今は体釼社(たいけんしゃ))社地にあったもの。高札場跡地からよく見える。

根石のサイカチ
上新の公会堂

ストーリー

 松本市のほぼ中央に位置する新村地区は、梓川右岸の東に向かって下る緩やかな傾斜地に豊潤な水田が広がる田園地帯です。当地区は、中世には新村南方・北方に分かれていました。江戸時代の延宝2年(1674)に下新・北新・上新・東新・南新の5か村となり、明治7年(1874)に合併し、新村となりました。
 野麦街道が集落を繋ぐように東西に走り、波田・安曇・奈川地区や飛騨国との人の往来や、食料品や生活必需品の輸送に重要な役割を果たしてきました。当地区はこの野麦街道を中心にして中世以降、交通の要衝として大きく発展しました。近代になると、大正時代に筑摩鉄道(現在のアルピコ交通)が開通し、新村駅を中心に栄えました。
 地区内には、集落と集落を結ぶ里道が縦横に通り、その道は梓川を渡って、安曇地方へも続いていました。道祖神や馬頭観音などの石造物や小さな社が道筋にあり、そこでは観音講や数珠回し、さまざまなお祭りなど人々の祈りや娯楽の場が設けられ、今に続いています。水量豊かな水路や、工夫を凝らした分水工からは、広大な土地を水田へと変えていった先人の苦労が偲ばれます。集落内には蚕室・土蔵・本棟造りの家などが残されています。広々とした稲田とその向こうの山々を見るとき、新しの郷に住む喜びを感じます。

活動

 新村地区に関わる文化財の調査、研究及び記録保存を行うとともに、保存整備と活用に取組みます。これまでの活動成果を基に、地域学習テキスト『ふるさと新村』を作成し、小中学校の歴史学習や住民向けの講演・講座、松本大学と連携したウォークラリーなどを開き、文化財に関心を持つ人を育てます。また道の清掃や、案内板・標柱の点検を行い、地区内の美化に努めます。地区に松本大学があるという特色を生かし交流を進めながら、若者たちに地区の特色や文化財を知ってもらい、関心を高めることにも努めていきます。

 新村文化財保存会と新村公民館の共催事業でパンフレットを活用して、地区内の文化財等を巡りました。地元の町会長や町内公民館長が文化財等を案内し、それぞれ約20名の参加がありました。

 R3新村歴史探訪

 令和3年度 10月16日(土曜日) 新村歴史探訪(下新南町会)

 R4新村歴史探訪

 令和4年度 10月29日(土曜日) 新村歴史探訪(下新北町会)

資料

マップ
新村マップ[PDFファイル/3.69MB]このページのトップに戻る

 

パンフレット
パンフレット [PDFファイル/3.94MB]

 

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