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近代今井の象徴
~幕府領が守った文化財~
認定年月日
平成31年(2019年)2月26日
保存活用団体
今井地区文化財委員会
構成する文化財(関連文化財群)
宝輪寺
遍照殿(へんじょうでん)
この建物は天和元年(1681)に廃寺となった小沢山常光寺より塩尻市宗賀本山の長久寺へ明治9年(1876)年に移設されたものと伝えられています。常光寺について長野県町村誌によると「本山駅の南方に小沢山常光寺と称する真言宗寺あり。耶蘇宗に属し元和元年廃寺となりて長久寺に合併・・・」とあります。廃寺の原因はキリシタン弾圧のためであったといわれています。
明治4年廃仏毀釈に際して、観音堂は村人の手により焼却されようとしましたが、東筑摩郡今井村宝輪寺住職が当時観音堂を30両、鐘楼を15両で買い受け、宝輪寺境内に移設し現在に至っています。
鐘楼
北小野真光寺より移築
千手観音立像
本尊は移設の際失われて、現在は東筑摩郡本郷村廃大音寺の千手観音立像が安置されています。
正覚院
観音堂ほか堂宇
観音堂
明治6年(1873)波田の慈眼山若澤寺の薬師堂を移築。5円で買ったといわれています。若澤寺は、天平年間(729~749)に行基によって創建され、延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が再建したと伝えられる古刹で、信濃日光と称えられ善光寺と並び称されていました。
庫裡玄関
明治7年(1874)四ヶ村(上今井村、下今井村、古池新田村、野口新田村)が合併し今井村設立後、若澤寺の庫裡を移築し役場として使用していました。役場新築後は農協の事務所として使用しましたが、農協の改築に伴い玄関のみが正覚院書院玄関として移築されました。
鐘楼(復元)
松本蟻ヶ崎正鱗寺より
聖観音(しょうかんのん)立像
浅間温泉真観寺より
什物
書院欄間(2枚)
かつては若澤寺の庫裏座敷の欄間に使われていました。
駕籠
若澤寺住職が使用したと思われる引き戸付駕籠。若澤寺は御朱印寺の格式を持ち、住職はお供を従え駕籠で旅をしたと伝えられます。
運搬用金具付棚
文久二年壬戌十二月吉香日。工匠三吉屋省吉の記入があります。
田中家墓地石仏
若澤寺最後の住職尭賢(ぎょうけん)の実家。波田若澤寺より石仏2体。
三村家千手観音立像
若澤寺の記録にも所在が記録されています。
若沢寺庫裡襖絵(にゃくたくじくりふすまえ)軸
「虎渓三笑之図」といわれ、狩野伊川院栄信(ながのぶ)の筆と伝えられます。昭和4年軸装。
ストーリー
もらい受け 堂宇(どうう)整う 廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)~今井ふるさと歌留多より
明治の廃仏毀釈によって松本藩内の多くの寺院が廃寺となりましたが、幕府領であった今井にはこの災難が及ばず、壊されそうになった仏像・建物をこの地に受け入れました。今井は古くから仏教文化が色濃く、念仏講が盛んで多くの名号碑があります。一連の文化財群を見ると、仏さまを受け入れた背景だけでなく、廃寺となった波田若澤寺・浅間温泉大音寺、北小野真光寺などの歴史も語りかけてきます。明治維新の激しい時代の変わり目にさまざまな理由で今井へもたらされた文化財を、先人は今日まで守り通してくれました。
活動
松本の廃仏毀釈の歴史、文化財を守った彼らの心根を、みんなで学びます。文化財を送り出した地区や、幕府領で仏さまを受け入れた他の地区へも学習の輪を広げます。この文化遺産を未来へ守り継ぐために、見学会、文化財調査、紙芝居やパンフレットの作製、新規就農者向けの講座、今井小学校などでの講師役を行い、文化財を守る担い手の育成につなげます。
案内板の設置
児童センターウォーキング
視察受け入れ