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虚空蔵山と善光寺街道~祈りの道~

更新日:2025年3月28日更新 印刷ページ表示

虚空蔵山と善光寺街道 ~祈りの道~

認定年月日

令和7年3月24日

保存活用団体

四賀文化財保護協会

構成する文化財(関連文化財群)

虚空蔵山と善光寺街道に関連する文化財

会田御厨神明宮

 鎌倉初期に会田の地頭海野氏の寄進により成立したと思われる内宮会田御厨、70町の惣社で旧郷社。本殿は宝暦6年(1756)の再建で神明造り、隣の宮本公民館は神宮司のあったところで多くの仏像が安置されている。​

会田御厨神明宮蔵 「潮干狩之図」絵馬(北鵞齋弘探筆)

 「潮干狩之図」絵馬 北鵞齋弘探筆

 画面の落款により天保2年(1831)に北鵞齋弘探によって描かれたことがわかります。富士山の見える砂浜で潮干狩りに戯れる「からこ」の童子、着物の裾をはしょり潮干狩りに興ずる美人女性を描いています。

裏面墨書から、絵馬製作時、弘探は旧信濃国筑摩郡会田組の原山村(現在の四賀地区原山町会)に住んでいたことが分かります。

海を持たない長野県ではこのような絵馬の奉納はたいへん珍しい事例です。

岩井堂

 岩井堂観音堂 木造千手観音坐像

 『善光寺道名所図会』に天平勝宝の頃、行基菩薩が草坊を結び千手観音を刻み、弘法大師が鎮護国家の霊場とし大日如来を安置したとあり、弘法大師の伝承を伝えています。山は砂岩の海蝕奇岩で、明治から昭和初年にかけて石炭を採掘していました。

 観音堂は信濃三十三番霊場の第二十番札所で、特徴ある千手観音像を安置しています。観音堂の周囲には11体の摩崖仏と多くの石仏があります。

ストーリー

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 四賀地区には、古代から文化の大動脈である東山道の本線と支線が通り、鎌倉時代になると伊勢神宮内宮の領地となり、地区の中心に会田御厨神明宮が置かれました。その後、小県郡の滋野氏の一派海野氏がこの地に進出し、御厨の地頭となり、以後会田氏と名乗り勢力を広げました。そのため、戦国時代の会田氏の館跡、虚空蔵山城などの遺跡も多く残されています。

 また、古代から交通の要衝であったことから、江戸時代には、幹線の五街道に対して支線ともいうべき脇往還が整備されました。四賀地区においては、中山道の脇往還で善光寺道とも呼ばれた北国西脇往還や、東山道以来の古道であり江戸道とも呼ばれた保福寺道も通過しました。善光寺道には刈谷原と会田、二つの宿場が整備され、会田宿は松本・善光寺の中間に位置し、上田方面や安曇野方面への分岐点でもあり、宿場としての機能の他に嶺間地方の経済・文化の中心地ともなっていました。

時代は下り、四賀地区は明治初めの廃仏毀釈の影響を受けることがなかったため、寺社や仏像が数多く現存しています。また、2,900基以上の石造文化財が地域内に残るなど、民間信仰が極めて盛んな地域であったことがうかがわれ、深い信仰心が人々の暮らしと心を支えてきました。

活動

 四賀文化財保護協会では、村時代に編纂された「四賀村の石造文化財誌」と「四賀村の寺社文化財誌」を活用した公民館文化財講座を年数回開催、公民館事業「四賀地区内ウォーキング」開催時に講師として地区の文化財の説明、地区内にある文化財の状況調査などを実施してきました。

 今後は、善光寺街道と虚空蔵山登山道の整備や、文化財案内看板の設置、四賀小学校の遠足へ同行しての関連文化財群の説明などを計画しています。

資料

虚空蔵山と善光寺街道 範囲図


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