本文
貞享騒動の記憶
貞享騒動の記憶
認定年月日
令和5年12月1日
保存活用団体
義民塚を守る会
構成する文化財(関連文化財群)
貞享騒動ゆかりの文化財
貞享義民塚
昭和25年(1950)、丸の内中学校建設工事の現場から18体の遺骨が見つかり、それまでわからなかった貞享騒動の勢高(せいたか)臨時刑場の場所の発見となりました。この遺骨を改葬し、出川刑場で処刑された13人を合わせて供養するため、当時の松本市長を務めていた松岡市長を会長として貞享義民顕彰会を設立し、貞享義民塚を築きました。
泣き坂と別れ石
貞享3年(1686)年、「貞享騒動」と呼ばれる農民一揆がおこりました。この一揆に参加した農民は総勢1万人にものぼるともいわれますが、わずかな日数で鎮圧されました。40人余りが捕らえられました。このとき捕らえられた首謀者の加助たち一行は、熊倉の渡しから船で犀川を渡ったといい、島内の高台で故郷を見るために振り返ったという「泣き坂と別れ石」の話は、義民伝承の一つとして今日まで語り継がれています。
ストーリー
「貞享騒動」は、貞享3年(1686)に松本藩領内で起きた大規模な百姓一揆で、首謀者の名を取って加助騒動とも呼ばれます。水野家3代藩主の忠直が年貢の負担増を課したことから、これに反対する農民が藩内全域で蜂起し、1700人余りが城下に押し寄せたといいます。藩はこの一揆の首謀者とその家族を城山と出川の刑場で処刑しました。昭和25年(1950)、城山の刑場跡から出土した人骨を埋葬した義民塚がつくられ、現在まで慰霊祭が行われています。
貞享騒動は、明治時代に自由民権運動が盛んになると、「権力への抵抗」の先駆けとして貞享義民が評価され、顕彰が行われるようになり、現在も人々の記憶に残り続けています。
活動
平成28年(2016)、公益法人制度の見直しによって、義民塚を築いた際に発足した貞享義民顕彰会が解散するにあたり、株式会社サンエネックにより大規模な義民塚聖域整備事業を実施しました。整備にあたった関係者によって「義民塚を守る会」を設立し、義民塚及びその周辺の環境維持活動を実施しています。また、義民塚の清掃を丸の内中学校PTAと連携して行っています。
今後の活動として、貞享騒動について関心を持ってもらうためのパンフレット作成と配布、関連文化財群の見学会開催などを計画しています。
資料
位置図