プロフィール
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更新日:2016年4月14日
近代教育の夜明けと旧開智学校
開校
明治6年(1873)5月、開智学校の校名で廃寺を仮校舎として開校。
校舎竣工
明治9年(1876)4月、仮校舎として使用していた廃寺の跡地に、広大な新校舎が竣工。
重文指定
昭和36年(1961)3月23日、明治時代の擬洋風学校建築としては、わが国で初めて重要文化財の指定を受けました。
教育博物館へ
昭和38年から現在地への移転修理工事を行い、昭和40年に教育博物館として公開開始
比類なき資料
旧開智学校で保存している各種の教育資料は、質・量とも日本一ともいわれています。
旧開智学校のはじまり
開智学校の誕生
開智学校は、明治6年5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校しました。
新校舎は明治9年4月に全久院跡地に竣工し、昭和38年3月まで約90年間使用された、わが国で最も古い小学校のひとつです。
校名の由来
「開智」の校名は、明治5年8月学制発布の前日に公布された「被仰出書」の文中にある「~人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ~云々」から命名されたといわれています。
開智学校の建築モデル
建築様式は和洋混交の擬洋風建築です。東京大学の前身である開成学校などを参考に作られています。
学校建築の立役者
校舎の建築は、教育振興政策を強力にすすめた当時の筑摩県権令永山盛輝の命を受けた地元の大工棟粱立石清重が設計施工したもので、現存校舎のほかに30余室の教室棟が設けられており「広大華麗・地方無比」とうたわれた大規模校でした。
学校工事費
工事費は、当時のお金で1万1千余円の巨額なもので、そのおよそ7割を松本町全住民の寄付により調達し、残り3割は特殊寄付金及び廃寺をとりこわした古材売払金などで調達しました。
近代教育の発祥地
新時代の授業風景
開智学校押絵雛は、開校当時の授業の様子を表現しています。羽織・袴に靴をはいた先生が洋算を教え、子どもたちは腰かけに座り授業を受けています。
授業の内容
開智学校では、明治5年8月に布達された教則に準拠しつつ、読本課・算術課・習字課を設け、英字課も置いていました。
英字課は、県内では開智学校だけで、将来中学校の創設を考えていたようです。
開智学校に附設された教育機関
開智学校には、明治時代を通じてさまざまの教育機関が併設され、幼稚園や高等教育・特殊教育、社会教育等の礎を築きました。
併設された諸機関は後にそれぞれ独立して、現在も生き続けています。一例を示すと、
・師範講習所(明治6年)は後に、信州大学教育学部に、
・変則中学校(明治9年)は後に、県立松本深志高校に、
・付属幼稚園(明治20年)は後に、市立松本幼稚園に、
・開智書籍館(明治24年)は後に、市立松本図書館に、
・明治三十七、八年戦役紀念館(明治39年)は後に、松本市立博物館に、
・盲人教育所(明治45年)は後に、県立松本盲学校に、それぞれなりました。
昭和の移転修理
現役を引退して教育博物館へ
旧開智学校は、昭和36年(1961)3月23日に重要文化財に指定されました。90年もの歳月にわたり、市街地の中央を流れる女鳥羽川のほとり(現中央1丁目)にありましたが、河川改修のため昭和38年1月から翌39年8月にかけて、工事費2,873万円をかけて現在地への移転修理工事をおこないました。
昭和40年4月、旧校舎は教育熱心といわれる風土と県民性を伝える証として教育博物館に生まれ変わり、現在に至ります。
