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1985年から1989年の写真

ページ番号:120-449-654

更新日:2021年7月8日

このページでは、1985年から1989年の松本市の写真を掲載しています。
目次をクリックするとその年の見出しへ移動します。
各年の最後の部分からこのページのトップに戻ることができます。

目次

昭和60年(1985)

初市

昭和60年初市の模様。当時の市場は笹賀の流通業務団地内ではなく、南松本の総合団地内(地名は市場)にありました。昭和44年の開設でしたが、高速交通時代を迎え、この時点で、既に、笹賀への新市場の建設計画が進行していました。(1月)

山辺小学校でスケートリンク

山辺小学校のたんぼを利用したスケートリンク。昭和30年代、40年代には、当たり前だった「たんぼリンク」もこの頃には珍しくなっていました。 (1月)

バレンタインデー

「毒入り危険、食べたら死ぬで」怪人21面相による、グリコ・森永事件で菓子業界が大打撃を受けた中でのバレンタインデーのチョコレート売り場の光景です。売り場の様子からは、事件とは無縁に見えますが....(2月)

南松本北踏切立体交差工事

あかずの踏切として悪名高かった南松本北踏切立体交差化工事の様子。電車を通しながらの立体化ですから、かなりの難工事。完成は、62年の3月でした。 (3月)

田沢犀川に白鳥が飛来

豊科町田沢地籍の犀川白鳥湖といったら今ではすっかりお馴染みですが、犀川田沢橋下流に白鳥が初めてやってきたのがこのシーズンでした。その数56羽。3月初めの写真ですから、シベリアへの旅立ちを前に羽根を休めているのでしょうか。(3月)

芳川四カ堰分水

塩尻市広丘堅石地籍の四カ堰の分水口。水不足に悩んでいた芳川の4か村(村井、小屋、平田、野溝)に農業用水を供給するため、百瀬三七翁によって明治5年に築かれたものです。現在のものはコンクリートで水圧を利用して4地区に分水しています。 (4月)

第1回浅間温泉へそまつり

松本は日本の真中、つまり「へそ」の位置。浅間温泉こそ、日本のへそということで始まった「浅間温泉へそまつり」でしたが、10年間でその短い祭りの歴史にピリオドを打ちました。(5月)

流通業務団地竣工

6月10日に行なわれた流通業務団地の竣工式。高速交通時代の流通の拠点として、卸商業団地と公設地方卸売市場の二つの核を持ち、昭和54年度に用地取得を開始しました。この日、竣工を迎えたのは、市場部分を除く卸商業団地部分でした。 (6月10日)

時計商組合松本支部長小沢さん(オザワ時計店)

6月10日は時の記念日。県時計宝飾眼鏡商業協同組合の皆さんは、昭和51年から毎年10個、市の施設などに時計を贈り続けてくださいました。この年、その善意が丁度100個になりました。(6月10日)

銭湯(菊の湯)

家庭風呂の普及によって、「おせんと」の愛称で親しまれてきた公衆浴場も利用者の減少に直面するようになりました。新しいタイプの公衆浴場も登場して、従来とは違う客層を獲得するようになりましたが、経営難の時代は続きました。この当時の市内の「おせんと」の数は、30軒でした。(6月)

大雨で壊された上二子橋(笹賀)

梅雨の大雨で壊された笹賀の上二子橋。木橋は、平時は風情があっていいのですが、災害となると流木が橋桁にひっかかるなど、脆弱で順次永久橋に架け替えられていきました。 (6月)

アメリカ・ソルトレークシティーより中学生が来松

習字に挑戦するソルトレークシティーの中学生。2年連続の松本訪問でした。これ以後、中学生が団体でやってくることは、残念ながらなくりましたが、丸ノ内中学の生徒との交歓会も楽しみました。(6月)

近代建築・藤井安彦邸(沢村)

いわゆる文化住宅の流れをくむ、沢村の藤井安彦邸。昭和18年に医師の藤井富夫さんが建てたもの。障子一枚一枚にも竹製のスライド式の通気孔が設けられるなど、気配りの行き届いた、今でもお洒落な家です。(7月)

近代建築・横山孝顕邸(埋橋)

源池小学校前の洋館は、昭和初期に、第三代百瀬渡市長の娘婿の写真家が建てたものだそうです。欅の繁みの中のエキゾチックな洋館は、童話の中に出てきそうな建物で、専門家も見学に訪れるそうです。(7月)

里山辺林の地下飛行機工場建設のトンネル

里山辺林城山の地下に残るトンネル。太平洋戦争末期、空襲を逃れて軍需工場が次々に松本へ疎開してきました。林城山の地下には、中型飛行機を生産するための工場の建設が計画され、朝鮮半島や松本周辺から労働者が集められ、過酷な労働条件の中で突貫工事で掘り進められましたが、終戦によりその完成を見ることはありませんでした。(7月)

烈風づくりのエンジニア・東條輝雄さん・曽根嘉年さん

当時、松本で秘密裏に開発されていたのが、ゼロ戦の後継機で当時、世界最強の幻の戦闘機と言われた「烈風」。写真は、堀越二郎さんのもとで、ゼロ戦から烈風まで、艦載機の設計に携わった東條輝雄さん(左)と曽根嘉年さん。ともに、松本で終戦を迎え、後に三菱自動車の社長を歴任しました。東條さんは、東條英機元首相の子息で、後に国産旅客機YS11のプロジェクトにもかかわりました。(7月)

烈風の雄姿

この写真は、終戦直後の昭和20年9月29日、烈風の調査に松本へ来た米軍が撮影したものとされています。この独特の形をした翼を持つ烈風は、プロペラをつけて、後に横須賀に向けて飛び立ったとされていますが、その後については未だに不明です。(7月)

神林飛行場格納庫跡

烈風が納まっていた格納庫の壁の一部。菅野小学校の南に今も残っていますが、それを知る人も少なくなっています。こうした歴史の証人をきちんと残すことも我々の使命ではないでしょうか。 (8月)

中山霊園のシンボルタワー

9月23日、完成した中山霊園のシンボルタワー、高さ12m。中山霊園奉賛会では、これを記念して、21世紀のあなたに”あなたのメッセージ”をお返しする企画を行いました。 (9月)

内田運動公園の照明設備

内田運動公園には、新たに夜間照明施設が設置されました。総工費、1億200万円。少年野球やシニア野球などのメッカとして利用率が高い運動ひろばです。 (9月)

簡水から上水道へ

山辺谷は、はやくから開けたところ。水も豊富な場所で、かつての基準では、水に困ることはありませんでしたが、上水道が普及する時代となると事情も異なり、雨の影響を受けやすい簡易水道から上水道に順次切り替えられていきました。(9月)

松本市戦没者追悼式

戦後40年にあたり、11月11日の世界平和記念日を選び、戦没者追悼式が挙行されました。第二次世界大戦で戦没した松本市出身者は、約2000人。この日、はじめて市の主催で行なわれた追悼式には、約1200人が出席しました。(11月11日)

昭和61年(1986)

四柱神社・御幸橋

四柱神社の御幸橋。明治13年の明治天皇の行幸に併せて作られた石橋で、松本城の総堀にかけられた眼鏡橋でした。今では、往事の姿に復元されていますが、当時は欄干の擬宝珠も取れたままでした。 (1月)

渚の子ども念仏

市内に伝わる八日念仏の一つ、渚本村の子ども念仏は、浅輪姓の子ども行事として約300年の伝統を持ちます。小学生が念仏を唱えて地区内をまわった後、当家(とうや)に集まって、約9メートルの数珠をまわしながら一年間の一族の無事と幸せを祈ります。 (2月8日)

両島の足なかぞうり

大きなぞうりを作って魔よけを祈る「あしなか」行事は、全国で見られ、ぞうりをお寺に納める例もあります。両島のあしなかぞうりは、上島・下島で一足ずつぞうりを編み、念仏を唱えながら藁の数珠をまわし、念仏が終わるとぞうりは、一つずつ両島の4か所につるされ、1年間の無事息災を見守ります。(2月8日)

お八日の綱引き

里山辺の追倉(おっくら)の大久保姓に伝わる「お八日の綱引き」。300年以上連綿と伝えられてきました。男女に分かれて綱引きをして、五穀豊穣のシンボル・女性が勝つとその年は豊作ということで、毎年、女性が勝ちます。(2月8日)

松本~新宿間時間短縮

3月3日の国鉄のダイヤ改正で、全ての特急で松本・新宿間が2時間代になりました。最速は、2時間46分。昭和58年の塩嶺トンネル開通までは、約3時間40分かかっていましたから、全ての特急が3時間以内は、当時としては画期的な超高速化でした。(3月3日)

清水中学校

木のぬくもりを大切に、と全国に先駆けて木造で改築された清水中学校。エコノミスト誌にも取り上げられ、全国の注視の的となりました。当初は、補助金の交付に難色を示していた文部省もこの反響に補助金の交付基準を変えることになりました。(3月)

市街地開発対策本部

中央西地区の区画整理事業を本格的に進めるため、この年の4月に設置された「市街地開発対策本部」。場所は旧八十ニ銀行伊勢町支店の跡地。看板を掲出しているのは、市議会の大槻市街地開発特別委員長(左)と窪田収入役。事業の竣工はこれより後、16年後の平成14年でした。 (4月17日)

市民相談室・血圧計設置

市役所本庁舎1階にある血圧測定コーナーは、ちょっとした人気のスポット。来庁すると必ず測定して行くという方も少なくありません。その自動血圧計が設置されたのが、この年、昭和61年でした。 (5月)

村井仁氏・出馬記者会見

市役所の記者クラブでは、さまざまな会見が行なわれています。民間の催し、市民運動とさまざま。写真は、通産省を退官し、次期衆議院議員選挙への出馬会見に臨む村井仁さん。(右)

沢村市民プール

市街地にも屋外プールをとの声に昭和60年9月にオープンしたのが、この沢村の市民プール。当時のプールは、今井、島内、勤労身体障害者屋内プールと沢村の4か所でした。(6月)

新橋(島内)

このどっしりとした橋は、架け替え前の先代の新橋。松本と島内、南安曇郡、北安曇郡を結ぶ国道147号線の要衝にかかる橋で、交通量の増加と老朽化に伴い架け替えがきまりましたが、今みると風情があるいい橋ですね。(5月)

浮遊粉塵連続測定装置

スパイクタイヤによる浮遊粉じんの量を測定するために本町のアーケードに取り付けられた測定器。松本市の行政視察で約3か月、松本に滞在していたソルトレーク市役所の都市計画プランナー、ランディ・テーラーさんの名前を取って、テーラーズ・ボックスというニックネームがつけられました。 (7月)

奈良井ダム

松本・塩尻市民に安定した給水ができるように奈良井ダムの建設が始まったのが昭和48年。ダムの完成は、57年。そして、両市への送水に必要な全ての施設の整備がこの年完了し、7月30日に竣工式が挙行されました。(7月)

松本城レーザーパーフォーマンス

8月1日、国宝松本城をスクリーン(?)に繰り広げられたレーザーパーフォーマス。真夏の夜に浮かび上がった過去(お城=歴史)と現代のコラボレーション(競演)で、光のデザインは、後にお城のライトアップを手がけることになる石井幹子さんでした。 (8月1日)

南松本北やまびこ地下道

空かずの踏切といわれた南松本北踏切をアンダーパス方式で開けられた「やまびこ地下道」が竣工。10月9日から供用開始になりました。

覚心のふるさと(神林・福応寺)

法灯円明国師覚心。神林の福応寺に生まれ、鎌倉時代の禅僧で松本出身の僧としては、ただひとり、天皇から国師号をおくられた名僧です。南宋に学び、日本に味噌の醸造法を伝えたことでも知られています。(10月)

テクノフェア

長野県を5圏域にわけて、広域で産業振興をはかることを目的にテクノハイランド構想が立案されました。松本地域ではアルプスハイランド構想に基づき開催されたテクノフェア(見本市+商談会)。東京ビックサイトや晴海などで開催されました。(10月)

スタッドレスタイヤ展示会

スパイクタイヤに替わるタイヤとして今では常識のスタッドレスタイヤ。スパイクタイヤ禁止の流れの中で開発されたもので、その普及のための展示会の様子です。ちなみにスタッド(stud)とは鋲のことで鋲がないからスタッドレスタイヤという訳です。また、英語ではスパイクタイヤとはいわずに、スタデッドタイヤ(studded tire)といいます。 (10月)

六助池、学生スケート大会発祥の地の碑

大正14年1月16日、当初、諏訪湖で予定されていた第1回日本学生氷上競技会が、諏訪湖が凍らずに、岡田の六助池で開催されました。早稲田、慶應などに混じって松高ホッケー部も参加、ちょっとした偶然で、六助池は、学生スケート競技会発祥の地として歴史に名を留めています。(11月)

六助池

再び六助池。今では、改修されて規模も小さくなっていますが、かつては前述の大会が開ける程でした。当時は、市内のあちらこちら、特に山沿いの集落にこうした灌漑用のため池が散在していました。(11月)

中央道長野線工事現場

中央自動車道長野線の松本市内の工事も本格化。63年3月の供用開始を目指して工事が進みます。中央道を市内のどこを通すか、東山部ルートと現在のルートで議論がありましたが、東山部ルートは結局、どこで市街地に振るかで行き詰まり、現在のルートに落ち着きました。(12月)

昭和62年(1987)

公衆電話(直通国際電話)

国際化の進展と日本で働く外国人労働者の増加に伴い、市内にも国際電話ができる公衆電話が設置されました。場所は、駅ビル(当時の名はセルヴァン)前と大名町の松本電報電話局(当時はまだNTTではありませんでした)前の2か所でした。 (1月)

酒造風景(岩波・里山辺)

信州は酒どころ。雑菌が繁殖しない冬場が酒造りの最適期。この当時、松本には9軒のつくり酒屋がありました。酒造りの職人ともいえる杜氏(とうじ)の8割が小谷村出身でした。耕地が少ない小谷村では、酒造りの技術を身につけ、冬場、杜氏として活躍して来た歴史があります。 (2月)

ホットプラザ浅間

4月29日、当時の本郷支所の横にオープンしたホットプラザ浅間。湯の町にふさわしい民家づくりの温泉会館で、一般浴槽、サウナ、うたせ湯、かぶり湯などの施設を備えた市民の温泉です。 (3月)

松本市歯科医師会館(駅前会館)

駅周辺整備事業の終了を記念して、市と歯科医師会が区分所有する(1,4階=市、2,3階=歯科医師会)松本市歯科医師会館(松本駅前会館)が竣工。7月には、ファクシミリを設置して、戸籍関係書類の交付が可能となりました。また、緊急歯科治療もここで行われるようになりました。(4月)

木工会館

5月2日にオープンした木工会館。木工関係の企業が集積した木工団地のセンターとして北アルプスの稜線をイメージした造りになっています。親子木工教室の場などに活用されていますが、作りつけの家具が主流となったこともあり、木工を巡る環境は、以後、厳しさを増して行きました。 (5月)

市制施行80周年市民のつどい(あがたの森文化会館)

昭和62年は、明治40年に市制が施行されてから80周年の年。あがたの森文化会館講堂で、記念行事が開催されました。(5月1日)

田植え(入山辺・舟付)

珍しい手植えによる田植え風景。昭和30年代までは、手植えが主流で、小学生低学年は、1列植え。中学生になって3列植えができるようになれば一人前。お昼に食べる「でっかいオムスビの味」が懐かしい方も多いのではないでしょうか。(5月)

かりがね自転車競技場

惣社のかりがね池の跡地に池の傾斜を利用して作られた「かりがね自転車競技場」。松本には、戦争中、宮田自転車が疎開したり、戦後の一時期、宮田(現在の開明小学校)の場所に市営の競輪場があったり、自転車とは縁が深い土地柄です。(5月)

両島浄化センター

旧市街地を中心としたエリアをカバーするのが、宮渕浄化センターなら、南部をカバーするのがこの両島浄化センター、市民の期待を担って建設が進みます。下水道事業にかかる昭和61年度の予算は、何と91億円でした。(5月)

清水中学校

学校の改築は、昭和62年度予算で、今井小、本郷小、女鳥羽中の改築費が計上され、これで市内35校中、未改築は1校となりました。当時の和合市長は、学校改築に力を注いだことから「教育の和合」と呼ばれました。写真はそのシンボル的存在の清水中学校。
(5月)

模写電(あがたの森文化会館)

模写電送装置とは、ファクシミリのこと。市役所に来なくても戸籍関係の書類がとれるようにと7月1日には駅前会館に、2日には島内出張所に装置が設置され、この時点で8か所でサービスが受けられるようになりました。但し、この模写電、戸籍などの細かい内容を送るためのもので、超精密度の機械で、一般のFAXとは違います。(5月)

NHK杯国際女子バレーボール大会出場国団長・市長表敬訪問

この年の5月、NHK杯国際バレーボール女子大会が松本で開かれ、3日間で約9800人が旧総合体育館に観戦に訪れました。写真は、市長を表敬する参加四か国の団長の皆さんで、松本では、日本チームがブラジルチームに勝利しています。(5月

今井兼平館跡(今井)

朝日将軍木曽義仲の四天王・今井四郎兼平は松本の今井に住んでいたという伝承が残っています。今井は、朝日村を通じて木曽谷へのルートであり、兼平にまつわる多くの伝説が残されています。明治初年の記録にも「兼平の館は塹(ほり)に囲まれていて、その跡は塹村(ほりむら)という」と記されています。 (6月)

中野浩一選手・市長表敬訪問

6月27日の「かりがね自転車競技場」開きに、競輪の世界スプリントでV10を達成した中野浩一選手が新妻ともに来松。かりがね競技場は、「クセがなくとても走りやすい」とのことでした。(6月)

里山辺空爆をうけた墓碑

昭和20年3月2日、米軍の爆撃機が飛来。里山辺金華橋の下流500m付近で薄川の南に3発、北に1発の爆弾を投下。幸い死傷者はありませんでしたが、山辺小学校の窓ガラス約500枚が爆風で割れ、爆弾の破片で墓石がえぐられました。当時、林地区で進められていた地下工場を狙ったものと考えられています。 (7月)

五十連隊厨房跡(信大キャンパス内)

かつて松本は「軍都」と呼ばれ、今の信州大学キャンパスの北半分くらいは、陸軍第五十連隊の建物がありました。終戦により関連の建物はほとんど撤去されましたが、唯一残るのがこの赤レンガの厨房(食事をつくる)棟です。 (7月)

桜ヶ丘古墳

昭和29年6月3日、女鳥羽中学の生物クラブの生徒が桜ヶ丘(浅間)でヤマアリの巣を掘っていたところ地表から10cmのところで鉄剣などの残片が出土し、古墳発見のきっかけになりました。古墳は、5世紀のものとされ、調査の結果、金銅製の天冠が発見されました。 (8月)

音文パイプオルガン

市制80周年の記念に設置されたザ・ハーモニーホールのパイプオルガン。1年以上の月日をかけて、職人がホールとの相性を確かめながら3121本のパイプを組み立てたドイツ・ベッケラート社製のもので、費用は1億1千万円。今ではホールのシンボル的存在です。当時、急速な円高が進み、当初予算よりはるかに割安に出来たという逸話も残されています。 (9月)

花いっぱい運動発祥の地・記念碑

昭和27年4月8日、お釈迦様の誕生日の日に松本で生まれた「花いっぱい運動」。やがて全国に世界に広がって行きました。この年が運動誕生から35周年にあたることから千歳橋のたもとに記念碑が建立されました。(10月3日)

サンピア松本

昭和63年4月のオープンを目指して建設がすすむ「サンピア・松本」。正式名称は「長野県厚生年金健康福祉センター」。この種の施設としては、全国6番目の大型施設で、宿泊をはじめ、テニス、ゲートボール、大小三種類のプール、スケート場を備えた市民待望の施設でした。(10月)

昭和63年(1988)

あめ市・みこし

敵に塩を送る。上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという徳に感謝して始まった塩市がいつしか「あめ市」になったといわれます。いずれにしても、商都松本の活力を示す新春の祭りです。この年は、NKHの大河ドラマが「武田信玄」だったこともあって、一際の盛り上がりを見せました。(1月)

長野冬季オリンピック招致推進県民の集い

この年の1月に開催された長野冬季五輪招致推進県民のつどい。この段階では、国内候補地として、旭川、盛岡、山形、長野が競り合っていました。ちなみに国内候補地が決まったのがこの年の12月。1998年の開催地に決まったのは1991年の6月でした。(1月)

中央道を歩こう会

高速道路を歩いたことがありますか?走ったことの間違いじゃないかって?いえいえ、この年の2月7日には、長年の夢だった長野自動車道松本インターの開通を記念して、高速道路を歩くつどいが催されたのです。高速道を歩けるのは一生に一度のチャンス(?)とご覧のような人出でした。 (2月7日)

講演・四全総と地域振興(小島重喜氏)

市役所幹部職員を対象とした研修会の写真。テーマは四全総(よんぜんそう=第四次全国総合開発計画)と地域振興。講師は、 松本市出身の自治省大臣官房企画室長の小島重喜さん。小島さんは、徳島県総務部長、副知事も務められた方です。(2月)

松本城氷彫フェスティバル

国宝松本城の氷彫フェスティバル。今では、1月に開かれるフェスィバルも、この年は2月13,14日に開催されました。 (2月13日)

赤羽通重さん(笹部出身)・火縄銃170点を松本城へ

笹部出身で東京で料亭を営む赤羽通重さんから、多年、蒐集された火縄銃のコレクション170点を寄贈する申し出がありました。(2月12日)これがベースとなって、松本城天守閣に鉄砲蔵が開設されることになりました。

松本市暴力追放市民集会

広域暴力団の全国展開は、松本も例外ではありませんでした。松本市では、2月14日、84の市内の各種団体で構成する松本市暴力追放市民協議会との共催で暴力追放市民集会を開催、暴力団事務所へのデモ行進も行ない、2月定例市議会で暴力追放都市の宣言をしました。(2月14日)

駅前記念公園

4月のオープンを目指して最後の整備が進む「駅前記念公園」。駅周辺土地区画整理事業の完成を記念して出来た公園です。写真の上部は、まだ駐車場で、ホテルブエナビスタがオープンするのは4年後のことでした。(2月)

長野自動車道・松本インター開通

3月5日、待望の長野自動車道松本インターチェンジが供用開始に。楽しみに走ってみようという地元車が多く、この日だけで1万1917台が松本インターを利用しました。松本平の本格的な高速交通時代の幕開けでした。(3月5日)

和合市長・四期初登庁

3月22日、春の雪が降りしきるなか、3月13日の市長選挙で4選を果たした和合市長が初登庁しました。戦前の市議会の推薦に基づいて内務大臣が任命する制度では、30年間、市長の座にあった小里頼永(おりよりなが)市長がいますが、戦後の民選市長で4選は、はじめてでした。 (3月22日)

クラフトフェア88まつもと

5月28、29日の両日、あがたの森で開かれたクラフトフェア。この年で、4回目となり、県内76、県外57のあわせて133グループが約5000点の作品を展示しました。この手仕事の技の競演は、全国的にも注目され、21世紀へと受け継がれていきました。(5月28日)

ツール・ド・美ヶ原高原自転車レース大会

浅間温泉から美ヶ原高原までの全長21.6km、標高差1270mの大変ハードなコースを一気に駆け上がるツールド・美ヶ原。この年が第1回でした。(5月29日)

美ヶ原高原登山ロードレース大会

長野自動車道松本インターの供用開始で登場したのが中央道高速バス。新宿へ、名古屋へと鉄道よりは時間がかかるけれど、その分運賃は割安ということで、大好評。高速道時代を実感させる新しい交通手段の登場でした。(8月)

山辺中学校寄宿舎にて(赤沢英治君・早川志乃寿さん)

この当時、三城や扉など遠隔地を持つ山辺中学校には寄宿舎がありました。定員は10名。寮母さんが食事を作っていました。早川志乃寿さん(左)は家が扉で通えば片道13キロ、赤沢英治くんは、三城で片道、15キロ。寄宿舎のお陰で二人ともクラブ活動に打ち込めるとのこと。 (10月)

霞山荘(入山辺・陛下のお宿)

東山観光ホテルの昭和天皇がお泊りになったお部屋。思ったより質素という印象の方も多いのではないでしょうか。陛下は、もともと、質素を旨とされた方で、霞山荘とこのホテルは他の建物から離れていて、比較的警備がしやすいことが陛下の宿となった理由のひとつといわれています。このホテル、今はありません。 (10月)

第1回留学生応援ファミリー説明会

昭和63年、新たに広報国際課が設置されました。海外の姉妹都市との交流はもちろん、松本に海外から学びに来ている留学生との交流もはかろうということで、留学生応援ファミリーの会が作られることになりました。これは、その第1回説明会のもの。 (11月18日)

平成元年(1989)

昭和の遺産・松本のたから

昭和が64年1月7日で終り、翌日から平成が始まりました。「松本のたから」は、昭和62年の市制80周年記念事業として編纂され、松本市内105の文化財を紹介しています。発行の時期が昭和天皇の崩御とかさなり「昭和の遺産」となりました。(1月)

塩倉池(少なくなったため池)

松本市内には、天然の湖や沼は一つもありません。そこで河川の水利にあまり恵まれなかった東山部を中心に多くの農業用のため池が作られてました。かつては、その数が50以上にものぼりましたが、農業基盤整備とともにその数も減っています。人造池とはいえ、数百年の歴史を持つ池のいくつかは、後世に伝えたいものですね。(写真は岡田の塩倉池 1月)

松本城氷彫フェスティバル

三回目を迎えた国宝松本城氷彫フェスティバルの写真。15体以上の氷の彫刻が並び、氷のすべり台やトン汁・甘酒サービスなどが人気で、新しい冬の祭りとして定着しました。(2月)

旭町中学校桐分校卒業式

旭町中学校桐分校は、全国でも数少ない”刑務所の中の中学校”です。社会復帰のために勉強がしたい、さまざまな理由で義務教育を修了していない受刑者がここで学び巣立ち、そしてそれぞれの出身刑務所へ戻って行きます。(3月3日)

ネパール・カトマンズ市代表来訪

世界の屋根、ネパールの首都カトマンズから、松本市との姉妹都市提携に向けた申し込みをするために松本を訪れた、バタライ・カトマンズ市長。(中央チェックのチョッキの方)日本の屋根の松本と「岳都」の共通点や民間ボランティア団体の植林活動が盛んなことから姉妹提携の機運も盛り上がりを見せていました。 (3月6日)

はかり資料館

この年の8月4日に開館することになる「松本市はかり資料館」の建物。明治35年(1902)に田中家が創業した「竹内度量衡店」が前身で、昭和61年に閉店するまで地域に親しまれました。その後田中家のご厚意により松本市へ寄贈された度量衡関係の資料600点をベースに博物館として再生しました。 (4月)

松本一本ねぎ(筑摩)

江戸の昔から筑摩、三才、中林などで栽培されてきた松本一本ねぎ。ネギは中国北方がルーツと考えられ、松本一本ねぎは寒地系の太ネギの系統です。早稲で、根深かで、寒さに強く、白身が太く長くやわらかいことが特徴です。やわらかさの秘訣は、土用の植え替えで、地味ですが、松本が誇る自慢の味です。(4月)

スポーツ橋にブロンズ2体

この年、相次いで大型体育施設が完成しました。市総合体育館と市野球場です。二つの施設を結ぶスポーツ橋に2体のブロンズ象が設置されました。洞澤今朝夫さんの「遥かなる」と久保田俶通さんの「風光る」(写真)です。(4月)

オーストリア駐日大使来日(パーティ席)

音楽とアルプスの国、オーストリアのフィッツ駐日大使が来松(中央のサングラスの方)。東ドイツで開発された、し尿処理技術がオーストリアを経由して、あずさセンターに導入されたこともあり、視察を兼ねて松本市を公式訪問されたものです。(4月25日)

水道水もブレンド時代(水道局管理棟)

水道の水が一番多く使われるのは、いつでしょうか。夏とお答えになる方が多いのですが、この頃は、冬が多く、61年度は12月31日、62年度は、2月21日でした。凍結防止のために、水道を少し出すためでしょうか。松本の水は、全国的にもおいしいという評価で、奈良井ダムの水が7割、地下水が3割使われています。(5月)

松本城鉄砲蔵

昭和63年に、今は故人となられましたが、松本市出身の赤羽通重(みちしげ)さんから火縄銃と関連資料の寄贈を受けて、天守閣に松本城鉄砲蔵が開設されました。翌、平成元年(この年)から、実際に火縄銃や大筒に火薬を詰めて行なう、国宝松本城古式砲術演武がスタートしました。 (5月)

松本市立考古博物館

昭和61年8月に開館した松本市立考古博物館。旧中山考古館の資料を引きつき、その後の発掘調査の成果が展示されています。復元住居が2棟あり、体験学習などで、人気の施設となりました。(5月)

松本空港・地元合意調印式

6月24日、県営松本空港の整備計画について、県・市と松本市内地元4地区(笹賀・神林・今井・和田)との間で合意が成立、吉村知事も出席して、協定調印が県合同庁舎で行なわれ、松本空港のジェット化整備に向けて大きく前進しました。 (6月24日)

日本陸軍の兵士たちのルールブック

陸軍省検閲済「陸軍禮式 同付録」と書かれた小冊子。禮式とは現在の字に直すと礼式。つまり、マナー集。陸軍兵士が守るべきルールやマナーがしるされ、兵士達はこれを肌身離さず持っていました。(当時の終戦特集から)

旧県営総合運動場陸上競技場(水汲)

現在の長野県松本文化会館の場所には、かつて県営の陸上競技場がありました。大正15年にオープンし、この年、8月13日の「さよなら競技会」で、64年間の松本のアスリートたちの汗と涙と喜びが染み込んだ歴史を閉じました。(8月13日)

エジプトから柔道のラシュワン氏来松

1984年ロサンゼルス五輪の柔道無差別級決勝で、山下泰裕選手のケガをした右足を攻めなかった、エジプトのラシュワン選手(写真左から3番目)が来松しました。 (9月)

松本市公設地方卸売市場

10月23日、公設卸売市場が開場。総工費115億円。松本平の台所として55万人の生活を支えます。写真は、一番ぜりのもよう。(10月23日)

カトマンズ姉妹都市提携調印訪問

11月17日、カトマンズで行なわれた姉妹都市の調印式のもよう。二番目の姉妹都市はアジアからの声の中で、中国の都市とまずという空気が強かったのが、この年の4月に天安門事件が勃発。当面、中国の都市とは難しいとの政治的判断からカトマンズが2番目の海外姉妹都市となりました。写真、左から大槻議長、和合市長、バタライ市長。(11月17日)

安房トンネル起工式

11月26日岐阜県高山市で安房トンネル本坑(15.6キロ)工事の起工式が挙行されました。降旗市長の時代に構想ができ、完成は、三代後の有賀市政の平成9年11月のことでした。 (11月26日)

橋本大蔵大臣との折衝

12月、橋本大蔵大臣との松本空港とあづみ野公園関連の予算の復活折衝に臨む、和合市長と村井代議士。橋本大臣は、豊科のクレハ紡績に勤務したことがあり、松本は第二のふるさと。当初、困難と言われていましたが、橋本大臣の「指を2本だせ」(両方OK)で予算が見事復活しました。(12月)

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〒390-8620 長野県松本市丸の内3番7号(本庁舎2階)
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