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1975年から1979年の写真

ページ番号:112-395-681

更新日:2021年7月6日

このページでは、1975年から1979年の松本市の写真を掲載しています。
目次をクリックするとその年の見出しへ移動します。

各年の最後の部分からこのページのトップに戻ることができます。

目次

昭和50年(1975)

社会文化会館

昭和50年7月竣工した松本市社会文化会館。東筑摩11町村で施設組合を設立、旧本郷村が管理村となって建設をすすめましたが、建設費が財政を圧迫し、これが松本市との合併の要因の一つともなりました。合併条件により松本市が建設を引き継いで完成しました。現在は改修され、本郷消防署と浅間温泉文化センターとして活用されています。(1月5日)

中山簡易水道工事

昭和47年、中山地区では異常旱ばつで灌漑用水のみならず飲料水にも不足を生じたことから、昭和49年から中山簡易水道の布設に着手、50年4月から中山小学校を中心とした60戸、250人への給水を開始、52年4月からは中山地区全域の670戸、2800人に給水しました。(2月3日)

養護老人ホーム温心寮竣工式

昭和49年12月に竣工し、翌50年1月から開所した、原の「温心寮」。昭和27年に本郷村川端に建設された老人福祉施設養護老人ホーム温心寮の老朽化に伴い、原地籍へ建設したものです。 (2月5日)

クリーン松本作戦(不法看板取り外し作業)

今も昔も、市街地の美観を損ねる違法看板。松本市環境をよくする協議会の皆さんによる撤去作業の一こま。(2月25日)

ソ・日親善協会副会長ド・ブロフスキー氏表敬訪問

今では、外国からのお客様は珍しくありませんが、昭和50年代前半は、まだまだ、珍しい時代。深澤市政時代は、東欧圏のお客様もお見えになりました。(鯛萬での歓迎会風景 2月26日)

駅前の自転車置場

松本駅の自転車置場にあふれる自転車。駅から学校までの足に自転車を利用する高校生が増えるとともに、自転車駐車場は飽和状態になり、放置自転車が社会問題となりつつありました。(3月)

駅前区画整理現場

駅前の区画整理事業と並行して、内環状線の整備もすすみ、中条の立体交差化がはかられました。 (3月)

内田総合グランド場

内田の運動グランド。今では照明塔もつけられ周りには桜が植えられて、少年野球などのメッカになっていますが当時は何もなく、バックネットがあるだけでした。 (4月)

三城分校の入学式

山辺小学校美ケ原分校の入学式の様子。年々児童数が減少し、一時休校状態でしたが、平成14年から再開しています。 (4月3日)

アルプス公園開園

昭和50年の子どもまつりに合わせて開園したアルプス公園。県から払いさげを受けた城山種蓄場に開設したもので、市民の憩いの場として親しまれています。 (5月)

小宮の五本松

島内小宮の五本松。樹形の美しいアカマツで、この五本松の他にも、薄川沿にも美しいアカマツがあり、そうしたこともあって、市木にはアカマツが選ばれています。 残念なことにこの五本松は、今は、枯れてありません。(5月)

松本ぼんぼん

第1回松本ぼんぼんのオープニングパレード。当初は普及を兼ねて二日間にわたって行われました。お馴染みとなってからは、8月の第一土曜日に開催され、松本の夏を代表する夏祭りになりました。 (8月)

3歳未満児保育

これはとある保育園でショット。核家族化、共稼ぎの増加で3歳未満児への保育が一般的になってきたのもこの頃からです。ちなみに松本市での最初の未満児保育の記録は昭和29年の幸町保育園です。(8月)

昭和51年(1976)

縄手にて「物作り」売り

昭和51年1月14日の縄手通りの様子。店先に見えるのは、三九郎のまゆだまのようです。(1月14日)

市役所を去る深沢さん

昭和51年2月9日、病気により市長の職を辞して、多くの職員に送られて市役所を去る深澤松美さん。高校時代はスポーツマンとして活躍。信濃毎日新聞の記者の経験もあり、飾らない性格から「松美さ」と市民から慕われました。「市政に愛と前進を」を掲げ、福祉の充実に取り組んだ深澤市政は7年で幕を閉じました。(2月9日)

木下尚江の生家

天白町の木下尚江(1869~1937年)の生家。木下は松本藩士の家に生まれ、弁護士、新聞記者として活躍。廃娼運動や普通選挙規制同盟会の結成に加わり、社会主義運動に参加。幸徳(秋水)の筆、木下の舌とも言われました。この生家は、松本市歴史の里に移築されています。

新市長初登庁

深澤市長の病気退任を受けて行われた市長選挙に無投票当選し、初登庁する和合正治氏。昭和13年に市役所に入り、一時満州国政府に勤務。戦後、再び松本市役所に勤務。総務部長、助役を経て第11代松本市長に。自身も7代の市長に仕えるなど、正にミスター市役所。(3月31日)

松本駅前風景

昭和51年8月の松本駅。2年後のやまびこ国体の開催にあわせて改築も決まり、最後の勇姿。 (8月19日)

三才山トンネル開通

中信地区と東信地区を短絡する三才山トンネルが遂に完成しました。古くから計画がありましたが、県庁の新築よりも先にこの道路ができると県庁は松本へ行ってしまうと長野で言われたこともあります。 (10月31日)

国体広告塔

国体の広告塔。第33回国体の主会場をめぐっては、長野と松本が激しく争いましたが、最後は、長野夏目市長と松本深澤市長の間で政治決着、松本が主会場となり、国体に合わせて社会資本の充実が図られました。しかし、招致の労をとった深澤市長は病に倒れ不帰の客となり、国体の炬火をその目で見ることはありませんでした。

旧松本村役場(井川城)

松本村と聞くと松本市の前身と思うかもしれませんが、れっきとした別の村。南・北深志町が母体となって明治22年に松本町が出来た時、出川、笹部、両島、高宮、並柳、の5か村と筑摩村の一部が合併して出来た村です。1925年(大正14年)に松本市と合併しますが、役場の建物は個人の所有となり今も活用されています。

昭和52年(1977)

牛伏寺で

1月15日、厄除けの日の牛伏寺。厄除けは11面観音ということで、牛伏寺のほかに、徳運寺、方向寺、大安楽寺が知られてます。(1月15日)

酒井コレクション里帰り

約10万点の酒井コレクションを展示する日本浮世絵博物館がオープンしたのは昭和57年。この当時、コレクターの酒井藤吉さん(左)は東京在住。博物館で開かれた里帰り展でのスナップ。 (1月28日)

高綱中学校焼失跡

昭和52年2月 高綱中学校の4棟が火災により焼失。損害額は、当時の金額で2億円を超えました。 (4月5日)

長称寺

長称寺の鐘楼。境内には泉がこんこんと湧いています。 (4月15日)

浮世絵まつりオープン

開幕した浮世絵まつり。酒井藤吉さんの説明を聞いているのは、降籏元市長。その右には、降籏市長とかつて議会で舌戦を繰り広げた松下高三郎市議。

身障プール

竣工した勤労身体障害者体育施設(身体障害者屋内プール) 明るい日差しが差し込む、障害者専用コースを持つ当時としてはモダンなプールでした。 (6月15日)

松本駅入口の壁画

旧松本駅のシンボル的な存在だったカモシカなどを描いた壁画。改築にあたって惜しむ声が多く、現在も駅の改札を通った左側の壁面に残されています。 (7月16日)

新村・花キ団地竣工式

国が減反政策をとるなか、より高い付加価値と収益性を求めて、新村地区を中心に花き団地が造成されました。カーネーションでしょうか。(7月30日)

爆音機

収穫の時期を控え、設置された爆音機。かかし⇒爆音機⇒目玉と雀との戦いの手段はかわりますが、絶対の策はないようで、最近では、かかしが復活しているようです。 (8月1日)

消防本部指令室

「火事ですか?」「救急ですか?」消防本部の通信司令室。黒電話や大きな受話器がなつかしいですね。 (9月20日)

勤労青少年ホーム

南松本の勤労青少年ホーム。働く青少年の交流と文化、スポーツ活動の拠点として活用されました。勤労者福祉センター、働く婦人の家、勤労身体障害者屋内プールと、勤労者の福祉施設が急速に充実した時代でした。(9月28日)

国体集合演技合同練習会(小学校の部)

やまびこ国体の開催を翌年に控え、今井の県営陸上競技場では、前年からさまざまなリハーサルが繰り返されました。今では、ピンと来ないかもしれませんが、国体は国内オリンピックだったのです。 (11月24日)

上二子橋

当時は、こうした木造の橋が数多く残っていました。木組みを見るとなかなか芸術的で、一本位は木の橋を残しておけばと思ってしまいますね。 (12月8日)

法務合同庁舎(沢村)

松本城周辺の整備計画に基づいて沢村に移転した法務局合同庁舎。旧法務局の跡地は現在、市営駐車場になっています。 (12月13日)

裁判所新庁舎

同じく、松本城北側へ移転した松本地区裁判所。道路拡張前の写真で、入口がお堀側にあります。現在の入口は、東側。(12月14日)

島立・大庭駅

大勢の乗客が昇降する上高地線大庭駅。車両もレトロで趣があります。東横線を走っていた現在の車両が導入されるのは昭和60年代に入ってからのことでした。 (12月19日)

裁判所引越準備

いよいよ引越しの時を迎えた裁判所。庁舎前の明治天皇の祈念碑は現在も二の丸庭園内にあります。 (12月20日)

昭和53年(1978)

市医師会と「緊急救急医療等に関する協定書」を締結

緊急医療等に関する協定書を締結する和合市長と医師会長。健康都市の構築に向けて医師会と行政とのタイアップの必要性は今も昔も変わりません。(2月3日)

一日女性消防官

昭和53年春の火災予防運動に市内の事業所から16人の一日女性消防士が参加。今ではお馴染みの消防士のこのスタイル、この頃から普及したものです。(2月28日)

朝の北松本駅踏切

朝の北松本駅。貨物駅の南松本ほどではありませんが、篠ノ井線、大糸線が走る北松本駅は、なかなか「空かずの踏み切り」でした。当時は、県の合同庁舎も城西にあり、深志高校、蟻ヶ崎高校へ通う学生などで朝夕は混雑していました。(3月17日)

早起き野球開会式

昭和50年代は団塊の世代のスポーツ盛りの頃。この年の4月2日、松本早起野球連盟の開会式には、何と87チーム、1500人が参加、寒さに震えながらの開会式だったようです。 (4月2日)

苗木の無料配布

緑の月間にちなみ、中央公園(現松本城公園)で実施された苗木のプレゼント。シラベ・サツキ・ムラサキシキブの3本1組の豪華版。この日配られた2000組の苗木は、今、どんな花を咲かせているのでしょうか。 (4月15日)

松電バスターミナルビル・オープン

国体を前に急速にすすんだ駅周辺の整備。4月20日には、松電バスターミナルビルが竣工。オープン記念セールに並ぶ長蛇の列。イトーヨーカ堂が核店舗として入り、人の流れが大きく変わりました。 (4月20日)

やまびこ文庫第一回配本

本は読みたい。でも、身体が不自由で図書館へ行けない方がいます。そこで市立図書館ではじめたのが、ご希望の本を車でお届けするやまびこ文庫。昭和53年6月6日が、第一回の配本のスタートでした。 (6月6日)

航空写真(自衛隊ヘリに同乗)

国体の開催を待つ今井の陸上競技場とサブトラック。上に見えるのは、松本空港の滑走路。自衛隊のヘリに同乗させていただき撮影したものです。(7月17日)

縄手の風鈴

縄手通りの店先に並ぶ夏の風物詩「風鈴」。ルーツは仏教とともに中国から伝わった風澤。クーラーの普及で最近はあまりみかけませんが音に涼を求める文化は大切にしたいものです。 「風鈴の鳴らねば淋し鳴れば憂し 赤星水竹居」(7月19日)

パブロ・カザルス像(市民会館前庭)

昭和53年7月31日、ライラック公園に建立された、チェロ奏者パブロ・カザルスの胸像。鈴木鎮一先生の才能教育運動に共鳴し、子どもたちの演奏に涙を流し、鈴木先生を抱き寄せた話など、あまりに有名です。 (7月31日)

松本駅ビル(東急イン屋上より)

完成間近の松本駅。撮影場所は、当時の松本東急インの屋上(現在のスピカイン。今の東急インはまだ建設されていませんでした。) (8月18日)

米飯給食(清水小で)

米飯給食がスタートしたのは、昭和53年の二学期から。当初は小学校が火曜日、中学校は水曜日の週1回でした。それまで、学校給食といえばパンが定番でしたが、米の消費拡大と子ども達の希望もあって実現したものです。現在は、小中学校とも週3回が米飯給食です。(9月5日)

小鳥と小動物の森オープン

9月15日、アルプス公園にオープンしたのが「小鳥と小動物の森」。大都市の動物園のように猛獣や珍獣はいませんが、かつて私達のまわりにいたヤギや豚の親子に直接ふれあうことができる場所として今も市民に愛されています。(9月15日)

火災実験(島内・カネボウ跡地)

12月1日、市消防本部が島内の鐘紡跡地(現在の音楽文化ホールの場所)で行った火災実験。室内に充満した接着剤の気化ガスが裸火で爆発。出火から2分で黒煙が建物を覆い尽くしました。写真は出火から45秒後。(12月1日)

寿豊丘で

夕暮れの田んぼで語り合う二人。林の向こうに広がるのは夕日に染まる空でしょうか。こんな場所でかくれんぼをした記憶が甦ってきます。当時郊外でみられたありふれた風景です。 (12月14日)

やまびこ国体・開会式

昭和53年10月15日。第33回国民体育大会秋季大会(やまびこ国体)の開会式で入場行進する長野県選手団。今でこそ、さまざまな国際スポーツイベントが主要都市はもちろん、地方でも開催されますが、当時は、国体が最大規模のスポーツイベント。国体にあわせて公共事業も取り組まれ、やまびこ道路(国体道路)などが建設されました。 (10月15日)

やまびこ国体・開会式 宣誓

昭和53年10月15日第33回国民体育大会(やまびこ国体)の開会式。長野県は、第1回大会が京都で開かれた翌々年から招致運動を始めましたが、松本市と長野市の主会場をめぐる争いで国体招致はなかなか実現しませんでした。 (10月15日)

やまびこ国体・陸上競技

第33回国体の招致にあたって昭和46年3月30日、県議会は「第33回国体招致並びに県民体育の振興に関する決議」を行い、県内の国体招致運動も高まり、松本・長野の主会場争いに終止符を打つべく、松本・深沢市長、長野・夏目市長、県理事者の間で懇談会が持たれたました。 (写真は16日の陸上競技)

やまびこ国体・弓道競技

そして、主会場を松本市とし、将来、長野県が冬季五輪を招致するようになったときは、長野が開催市となるという含みで、「主会場を知事に一任し、国体招致をすすめる」という合意に達したと言われています。(写真は19日の弓道競技)

やまびこ国体・自転車競技(ピット)

やまびこ国体は、「日本の屋根に手をつなぐ」をスローガンに、市民総参加のもと、質素ではあるが内容豊かな実りある国体として、以後開催された国体のモデルとなりました。 (10月)

やまびこ国体・閉会式

10月15日から20日の秋季大会の開催期間中の参加者数は、選手・監督等3796人、競技役員が1759人。観客数は延べ15万4000人。天皇杯、皇后杯ともに、開催県である長野県が獲得しました。 (10月20日)

第14回全国身体障害者スポーツ大会1

やまびこ国体につづき、10月28日・29日の両日、第14回全国身体障害者スポーツ大会が松本市で開催されました。選手891人、役員・介護者等1211人が参加。観客も延べ数で5万2500人を数えました。 (10月28日)

第14回全国身体障害者スポーツ大会2

競技種目は、陸上競技、アーチェリー、卓球、車椅子バスケット、盲人野球、水泳の6種目でした。陸上競技は、悪天候にみまわれたましたが、泥まみれになりながらの懸命な競技は、多くの観客に感動を与え、国体同様、大成功を納めました。(10月28日)

昭和54年(1979)

松本駅前

昭和54年新春の松本駅。駅ビル、今はMIDORI(みどり)となっていますが、当時は、CERVIN(セルヴァン)。アルプスの名峰マッターホルンのフランス名、モン・セルヴァン(Mont Cervin)から採ったものです。
(1月5日)

薄川第一発電所(入山辺)

松本にはじめて電灯が灯ったのは明治32年(1899年)12月8日のこと。四柱神社の境内でした。その電気を作ったのが、この入山辺の薄川第一発電所。明治32年から運転を開始し、390KWを発電します。薄川水系には、この他に3つの発電所があり、いずれも水路を利用しての発電方式を採っています。 (1月20日)

電灯記念碑(四柱神社)

松本の電灯80年を記念して四柱神社境内に建てられた碑。「電気の燈 初めて ここにともる」 それまでの光源は、街路ではガス燈など、家庭でオイルランプなどが主流でした。
(2月2日)

平瀬市民プール

清掃センター(後方の建物)の建設に併せて整備された平瀬の市民プール。この他にごみ焼却の余熱を利用したお風呂がある平瀬保養所、テニスコート、運動ひろばが整備され、今のラーラほどのスケールではありませんが、当時は、市民の憩いの場として親しまれました。
(2月2日)

ぶどうのせん定作業(入山辺で)

春の訪れを告げる風物詩は、さまざまですが、山辺のぶどうの剪定作業もその一つ。枝の切り口から樹液がしたたって落ちます。春がまさにじわっと込み上げてくる感じ。山辺でぶどうの栽培が始まったのは江戸時代のことです。山辺には、フランスのボルドーに代表されるぶどうの産地の条件とされる、日当りがよく水はけもよい南傾斜地が多く明治時代から本格的に生食用のぶどうが栽培されてきましたが、平成14年からは、ワイナリーを開設、ワイン作りも始めています。(3月2日)

一日女性消防官(ミス松本・清水則子さん)

3月3日に開かれた「消防と市民のつどい」で準ミスのみなさんとともに一日女性消防官をつとめたミス松本の清水則子さん。この制服のデザインは、森英恵さん。この時代には考えられなかったことですが、21年後の平成12年には、消防士の門戸が女性にも開放され、女性消防官が誕生しました。(3月3日)

県知事候補・西沢権一郎氏来庁

統一地方選の最中、市役所を訪れた長野県知事候補で現職の西澤権一郎さん。昭和34年から知事の職にあり、既に5期20年を務め、この選挙で6選をはたしましたが、翌55年、病に倒れ不帰の客となられました。松本市長が写真右の和合さんで民選市長として5代目でしたが、西澤知事は、2代目の知事。いかに在職期間が長かったか分ります。(4月4日)

岳人像(あがた公園内)

国からの払い下げを受け、あがたの森に本格的な公園づくりがスタートしたのがこの頃。前年に開催された国体の実行委員会から市に引き継がれた剰余金の一部で建てられたもので、洞沢今朝夫さんの作品です。高さは2m。学都のシンボルに、岳都をイメージした「岳人」の像。そう言えば、あがたの森では、サタデーコンサートや才能教育の夏期学校が開かれるなど、楽都の拠点でもあり、松本が誇れるところですね。(4月4日)

清掃センター

昭和55年4月18日に火入れ式を行った清掃センター。総工費23億円。一日150tの処理能力を持つ炉が2基が備えられました。しかし、竣工当時から、施設の寿命は15年程度といわれており、実際、既に新しい焼却プラントが稼動しているように、行政とは、ごみとの戦いでもあります。
(4月18日)

駅前通り(セルヴァン屋上より)

駅ビル(セルヴァン)屋上から望む、王ヶ鼻を遠望し、あがたの森へと続く道路。大正8年、旧制松本高等学校の開校にあわせて、当時の鍋屋小路などを拡幅して建設された通りです。工事費は3万4000円。歳出総額が20万円の時代ですから、大変な額といえます。この道路の愛称が公募により「あがたの森通り」と決まりました。(2003.11)
(5月21日)

あがたの森文化会館開館式典

10月1日、あがたの森文化会館がオープンしました。松本市の芸術・文化をはぐくみ、大正期の学校建築としても貴重な校舎を保存しながら、文化施設として市民に利用いただくという画期的な発想は、当時の理事者や関係者があがたの森の芝生に寝転がり、空を仰ぎながら、活用方法を考えた結果でした。写真は、開館式で松高の寮歌を歌う、母親合同コーラスのみなさん。
(10月1日)

第22回市民祭表彰式典(鈴木鎮一氏・名誉市民推戴他)

第22回市民際表彰式典で松本市の名誉市民に推戴され、あいさつをする、鈴木鎮一先生。「人は環境の子なり、愛深ければ為すこと多し」どの国の子どもも母国語を話すことにヒントを得、繰り返し聞くことを音楽教育に取り入れた、鈴木先生の才能教育運動は、スズキ・メソードとして世界に広がり、現在、世界で約40万人の生徒がいると言われています。(11月1日)

テッド・ウィルソン・ソルトレークシティ市長

昭和54年7月、極東歴訪の旅の中途、テッド・ウィルソン、ソルトレーク市長が松本市を訪問しました。ウィルソン市長は当時40代。フルマラソンを走ることでも知られ、短い松本滞在期間中もジョギングを楽しんでいました。 (7月)

お問い合わせ

総合戦略局 秘書広報室
〒390-8620 長野県松本市丸の内3番7号(本庁舎2階)
電話:0263-34-3200 FAX:0263-35-2030

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