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小笠原氏城跡(井川城跡・林城跡)

ページ番号:265-187-886

更新日:2019年12月13日

(読み方)おがさわらししろあと(いがわじょうあと・はやしじょうあと)

  • 指定等区分 国史跡
  • 指定年月日 平成29年2月9日(井川城跡・林大城跡)
  • 平成31年2月26日(林小城跡)
  • 種別 遺跡
  • 所在地 松本市井川城1-4553ほか(井川城跡)、里山辺5348ほか(林大城跡・林小城跡)
  • 所有者 松本市・個人
  • 時代区分 鎌倉時代~戦国時代

戦乱の世を駆け抜けた信濃国守護小笠原氏の足跡

国史跡小笠原氏城跡は次の1つの館跡と2つの山城で構成されています。
※林大城は林小城と合わせて林城(はやしじょう)ともいいます。

  • 井川城跡(いがわじょうあと)
  • 林大城(はやしおおじょう)
  • 林小城(はやしこじょう)

井川城跡

 松本駅から南に1kmほどの場所に「井川城」という地名が残っています。ここは、14世紀頃に信濃国守護小笠原貞宗が井川城(井川の館)を建て、本拠地としていたところです。
 小笠原貞宗は建武の新政の際、足利尊氏にしたがって活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられました。その後信濃国守護に任じられるに及んで、信濃国司の国務に対して権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたのです。
 井川館を築いた時期は明確ではありませんが、「小笠原系図」では貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられます。
 井川城の地は、薄(すすき)川と田川の合流点にあたり頭無(ずなし)川や穴田川が流れ、川の名からも想像されるように湧水地帯です。現在井川城跡として指定されている地域は、頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定されます。その一隅にある小高い塚は櫓(やぐら)跡という伝承もあります。さらに付近には「古城」「中小屋」のように館に関係する地名や、「下ノ丁」「中ノ丁」のように役所の存在を示す地名もあります。またこれらのほかに「中道」の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像されます。

林大城・林小城

 林城は里山辺地区林集落の東、大嵩崎(おおつき)集落をはさんで、南北に林大城と林小城が相対した信濃国守護小笠原氏の本城です。林大城と林小城をあわせて林城(はやしじょう)ともいいます。
 林城の築城年代については、小笠原長朝が嘉吉3年(1443)に林城で生まれていることが「小笠原系図」に書かれており、長朝の父である小笠原清宗の時代に築城され、井川館から移ったものと考えられます。明応元年(1492)に林城で生まれた小笠原長棟(長朝の孫)は、菩提寺である廣澤寺(こうたくじ)の中興開基になっており、この時代に林城は小笠原氏の本城として、信濃国守護にふさわしい風格を備えた山城となったのです。
 しかし天文19年(1550)7月15日、城主小笠原長時(長棟の子)は甲斐の武田晴信(信玄)に攻められて自落(戦わずして降参)し、山城や館は破壊されました。
大城の遺構は、金華橋のたもとから登ると、両側に階段状の小さな三日月郭(くるわ)が無数に現われ、尾根は大きな空堀(からぼり)で断ち割られ道を遮断しています。主郭は標高846mの山頂にあり、規模は大きく、さすが守護の本城であるとうなずけます。主郭の周囲には北から東にかけて土塁がめぐり、特に東側中央には野面積(のづらづみ)の石積が残っています。
 小城は古城とも書くので、大城より築城は古いと考えられていましたが、最近の縄張の研究などから、大城より新しい時代に造られたと考えられるようになりました。主郭をとりまく石垣や縄張などは、山家城や桐原城と共通性が高いものです。

お問い合わせ

教育部 文化財課
〒390-0874 長野県松本市大手3丁目8番13号(大手事務所3階)
電話:0263-34-3292 FAX:0263-34-3290

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